「自力で解きなさい」と言って5分の時間を取ったとき、全くわからない子どもは何をしていればいいのでしょうか。
 
私たちは、よく今から5分間は一人でじっくり考えて解きなさい、というような指示をだすことがあります。

これは子どもに考える時間を与えるという大事な指示ではありますが、文字通り額面通りだと、それで困ってしまう子どもがでてきます。

まったくわからない子どもです。

学級の中には、そんな子どももいるのです。
その子どもたちは、5分間どうしたらいのでしょうか。
 
 
佐藤学氏は容赦なく「それは拷問だ」と言っています。
 
教師の思いからすればそんなに言われたら身も蓋もないところですが、ある面、その通りでもあります。
 
 
考えろと言われても考える土台ができていない以上、5分間じっとしているしかありません。

5分経ったらそれがわかるかと言われてもその保証はありません。
 
 
そんなとき、「どうしてもわからければお友達にきいていいよ」という言葉を一言添えてあげるだけで、多くのことが解決します。

わかるようになろうという主体的な態度
5分間を無駄にせず、わかるために学ぶ時間に変えること
わからなかったら聞けばいいのだという、わかるための手段を学ぶこと
わからない子どもが友達にはたらきかけることで、つながりができること
わかる子どもがわからない子どもに教えることをとおして学びなおしができること。
「ありがとう」という言葉を生み出せること。
 
 
単に、学力が上がるということだけでなく、その向こうの友達との結びつきまでつながっていきます。
 
時には、「5分間は自力で頑張る」ということへの忍耐を経験させることにも何らかの価値はあるかもしれませんが、それはテストのときくらいでいいのではないでしょうか。

わかるための勉強時間ですから、そのための主体的な行動をとり、その結果上にあるような価値まで引き出せるのなら、それは大きな価値のあることです。
私はそう思うのですが・・・。

 2018年1月26日の西日本新聞朝刊に、「小中免許同時取得ダメ?~福教大が養成課程改革」という記事が1面トップに出ていました。

 「小学校重視、学生は不満も」というサブタイトルがあります。
 どちらの免許も取れると思っていた学生が、それができないと分かって困っていたり、課程を変えたいと相談したりする事例が起こっているとのことです。
 「学生には十分周知されておらず」と記事にはあります
 しかし学校は前年度に高校を100校以上回って説明してきたのだそうです。
 それを「言葉を濁した」と記者は書いています。
 福教大のやり方を好ましくないものと感じ取らせるような印象です。
 
 よく読んでみると、「小学校教育のスペシャリストを育てる」ためのカリキュラム改革であり、「多く免許を取ればいいというわけではない。小学校教員の即戦力を育てる改革に変えた」と宮内健二副学長は言っています。
 この改革のために重視したのは、小学校現場からの声。
 「教科の知識よりも、クラスをまとめる力、地域や保護者との連携力を持つ先生」が現場から求められているということです。
 つまり、あれもこれもととれる免許をたくさん取ってくるよりも、小学校一本に絞って「腹をくくって」学んだ先生を送ってくれという現場からの要請だといえます。
 
 これはその通りだと思います。
 私も高校まで免許を持っていますが、中学校免許も高校免許も使ったことがありません。
 異校種交流の制度があり、中学校や小学校間で人事異動ができるようにすることで、小中連携を高めようとしているのですが、私個人は、小学校一本に絞ってきています。異校種に行く気持ちはありません。
 今後も中学校の免許を使うことはないでしょう。
 だから、わざわざ中学免許までとっておく必要はありませんでした。
 
 とはいえ、それは今のように教師が少なく売り手市場の時代だったらいいのですが、そうでない時代はとにかく取れる免許は取っておいて、まず採用されたいと思うのは当然のこと。
 
 ですから「小学校専門」というこの改革は、今の時代だからこその改革であるというべきかもしれません。
 時代の要請によってはフレキシブルな対応がもとめられると思います。

 ただし、ひとつひっかかるのは、「教科の知識よりも」という言葉。
 新聞には「」書きにされていますが、誰が言ったのかは書かれていません。
 読みようによっては、学校が言ったかのように読めますし、記者の翻訳のようにも読めます。
 だから、だれが言ったのかは問いませんが、現場からの要請に「教科の知識」を重視しないということはないと思います。
 それは、なんの教科であれ、教科のスペシャリストということは、どの校種であっても教師としての存在理由の根幹であると思うからです。
 専門家として学び続ける態度は、「教える」という仕事の精神的な柱であり、子どもを薫陶する力となります。
 本来、「クラスをまとめる力、地域や保護者との連携力を持つ教師」とは、「専門的知識を有し、教えることのプロ」であるからこそ生まれてくるものです。
教科の専門知識を抜いて、それだけを独立して教え、身に着けさせるものではないと考えます。
 
 小学校重視というよりも、小学校の教師のエキスパートとして腹をくくって4年間学ぶための養成課程の改革については、良い方向であると思いますが、ぜひ、なんらかの教科の専門家として自分の根っこをちゃんと持てるようにするという視点を忘れずにいてほしいものだと思います。

 もうひとつ、特別支援教育には力を入れてほしいと思います。
 これはまさに即戦力です。
 どの学級にも発達に課題を抱えた子どもがおり、それへの合理的配慮を提供しなければならないのですから、特別支援教育の専門家を合わせて目指す人には同時に取得できるようにしてもらいたいものです。

2018年1月、京都府京丹教職員の負担軽減を目的委するために校務支援システムを導入したというニュースが出ました。

 これによると、通信簿や指導要録、出欠情報をPCで管理し、書類作成の事務作業の負担を減らすという考えです。

 同市教委では、すでに2011年からタイムカードを導入しており、勤務時間が長い職員には、学校長が声掛けをして健康を害さないように指導するそうです。

 このような意図で校務支援システムを導入する自治体は増えています。
 働き方改革により何とかしようとしているんです。


 私の住むところでも、同じような状況です。


 教師が長く残って明日の準備をしていたら、学校長に指導されます。いかにも効率が悪い教員であり、もっと段取りをよくしてサクサク仕事を進め早く帰れるように働き方を是正しなさいといわれているかのようです。

こういったことが、現場の教師にとってはとても違和感があることは、市教委はご存知でしょうか。

これを働き方改革と言われると違和感がある・・:なにか、すり替えられているような気持ちになるのです。

 授業の準備をしなければ明日の子供たちが困るから、残って授業の質を高めようとしているのです。それを指導により帰らせられたら、できるはずのプリントや資料ができないままということになります。


 校務運営システムにより書類作成の時間が減るということですが、実際にそこに入力するのは教師です。教師は児童生徒の状況や、出席の状況を放課後に入力するのです。さしてかわりません。

ましてや、「期限厳守」などと記された委員会からの調査を気担当教師に任された場合、「早く帰れ」と指導されたら、授業の準備を置いてでも先にそれをしなければならない。

帰るのは早くなるかもしれませんが、そうやって仕事の質を落とすことが働き方改革なのか、ということです。


 校務運営システムの導入は、働き方改革の一つの形にはなっても解決の糸口にはなりえません。


私たちには、「学力向上」という至上命題のもと、授業の質を落とすとすことは認められません、

 長時間労働の根源は、授業時数です。そして、人の不足です。   


 5時までの間に、授業する時間しかない、というところが長時間労働の原因なのです。


 教師は学び、準備しなければなりません。

 教育行政にかかわる上のほうの方々や、いたずらに授業時数を増やしたがる議員さんたちは、「子どもの勉強内容くらい、いちいち研究しなければならないことはなかろう。大人なんだから教科書の内容くらいその場でわかるだろう。教科書を子どもの前で読んで、テストをしておしまい。簡単なことだ」くらいにしか考えていないのかもしれません。

 しかし、ノーベル賞をとらせるための教育は、そんなものではありません。これからの急激な変化に耐えられる子供を育てるための教育は、「教えてテスト」ではだめなのです。
 丁寧に、丁寧に、やらなければならないのです。
 

 また、一般の学校は附属小学校かなにかのように授業だけに集中して教師のリソースを投入できるわけではありません。

 かなりの時間を保護者対応、生徒指導に割いているのです。

 明日の準備は、保護者が帰った夜の9時から、ということが年に何度も何度もあるのです。
 教師がせねばならないこと以外のことがたくさん課せられているという認識の上で働き方改革を行わなければ 絵に描いた餅です。

 結局「人」です。
 時間数を増やしたうえで負担軽減をいうのならば、人の拡充しか解決の道はないのです。
 「研修」でも、「使える資料のアップロード」でもありません。
人です。

 また、働き方改革は、部活動問題の解決だけにスポットがあてられるべきものでもありません。
 教職員の長時間労働といって「部活動」のことしか出てこない記事や報道に、いらだつ小学校教師は多いのです。

 小学校の、「4時まで授業して残り1時間で明日の6時間分の準備」という簡単なだれでもわかるおかしな状況にメスをあててもらうことが必要です。



1月5日に、第一生命が「大人になったらなりたいもの」アンケートの調査結果を発表しました。
それによると、「学者・博士」が男の子の1位となっており、これは15年ぶりとのことです。

2016年まで3年連続で日本人がノーベル賞を受賞したことで科学への関心が高まったことが大きいのではないかと言われています。


2位は野球選手です。

しばらくサッカー選手が2位でしたが、これを8年ぶりに上回ったそうです。

大谷選手の人気などの話題が野球選手への人気につながったようです。


以後、「医者、警察、刑事、大工」と続きます。

前回18位だった「消防士・救急隊」が7位に、前回33位だった「建築家」が9位と、それぞれおおはばに順位を上げているのは、昨今の社会情勢によるものでしょうか。



さて、子供たちに人気のある「Youtuber」

数年前、ある県で、Youtuberが子供のなりたいものランキングの上位になったと話題になってました。

したいことをして、刺激的な動画をアップロードしてたくさんの視聴を集め、広告料で生きていくスタイルにあこがれたもののようです。


しかし、2017年の春に、視聴回数が10000以下のアカウントは広告掲載ができなくなり、2018年になってさらに、「登録者数が1000人以上、視聴時間4000時間以上」」という制限があらたに加わり、簡単に広告収入を得るというスタイルはハードルが高くなりました。

これは、Youtubeの動画の質の向上ということとともに、子供たちの「らくして稼ぎたい。人気が出るなら手段や内容を選ばない」というような考えをある程度絶ち、生業をもってまじめに暮らしてくことの大切さを振り返らせる意味で大切なことだと思います。


筆者も、もう6年ほどYoutubeに動画を挙げていますが、それは私の動画をだれか必要な人の役にたててもらいたい、そうすればこちらも向こうもうれしい、というそのようなことのためです。

もう1つは、映像をを扱うのが好きで、動画かできたらそれを誰かに見てもらって、それを元にコミュニケーションをしたいということのためです。

Youtubeをそのように生活の質の向上のために使うのはとてもよいことだと考えます。

この回のアンケートの上位にYoutuberが入っていなかったのはよかったと思います。


佐藤学氏の「教師花伝書」を読んでいたら膝を叩く箇所がありした。

教師花伝書
「教師は、教える専門家であると同時に、「学びの専門家」でなければならない

「西洋東洋を問わず、古来、教えると言う不遜な仕事を教師が行うことができたのは、教師自身が他の誰よりも読書をし、学んでいたからである。よく学ぶ者のみが教壇に立つことを許されたのである。その大元が隠れているとしたら、これこそ教育の最大の危機と言うべきだろう。」

「教師が本を読まなくなったとよく指摘されるが、それ以上に、教師が美術館やコンサートや市民研究会から姿を消している。多忙な仕事に追われて学校と家庭に閉じこもり、教育の専門家としての教養も市民としての教養も衰退させているのではないだろうか。」72
以上、「教師花伝書」から。

学ぶ者のみが教壇に上がることを許される、というのはまさにその通りであり、古来、教師の薫陶力はそのことによって働いて来たのだと思います。

「先生ってすごいなぁ」という憧れの根本は、教師の学び続ける姿。

しかし、それが今後ますますできなくなっていくことを、教育行政に関わる役人たちはどのように考えているのでしょうか。

学ぶ時間どころか、翌日の準備をする時間さえもないと私は言い続けているのですが、その自明のことをいかにすればわかってくれるのか。
 
いや、わかっているのですきっと。しかし、同調圧力や外部からの圧力に抗しきれずに、そこに蓋をしている。
教育の破綻はすぐそこに来ているのに、目を開くことはしない。

教師の学ぶ時間はますますなくなり、子どもたちへの薫陶力もなくなり、教育は破綻していく。

なんとかそれに抗するために、ほんの少しの時間を使いながら、私は本を読み続けていきます。

こういうことの上に、日本の教育は成り立っているのだということと、それがますます困難になってくるということを、なんとか政策決定の場にいる方にわかってほしいと思います。


運動場や体育館での体育の後、「はい。おしまい」とやると、子どもは「わーっ!」と走って帰りませんか?
そのままにしていると、校舎の間に入って狭くなってきた時に押し合いへし合いが始まり、こけてケガをします。

また、靴箱あたりでも我先に靴を履き替えて校舎内に入ろうとしますので、靴箱が荒れますし、そこでこけてケガをする子どもが出ます。

まだ我先に、の気持ちが続いていますので、スピードを緩めません。ワーワー言いながら階段を上がっていき、足音と叫び声とで、大変な喧騒になります。

どうしてこうなるのでしょうか。

昨日、緊張を解く話をしましたが、急に緊張が解かれると子どもたちはその反動でパッと動き出します。
だから、急に子供達を手放してはいけないのです。

一度教師の手に届く範囲の中で緊張を解かせる。
運動の終わりの静かなエクササイズをして、心と体を落ち着かせてから、「終わりますから静かにお帰り」とさっと静かな声で指示します。
そうしたら初動でパッと散開することはありません。

その後見守っておかないとだんだん早歩きになり、最後は走り出しますので、この都度声かけを。

次のようなことを考えています。


「足をペッタン」なんて、1時間中できるわけじゃないです。
私が1時間中足を床につけておけなんて言われたら、どうにかなってしまいます。腰が痛くなって席についていられません。

一時間中足を床につけて姿勢を正しくさせておく、というのは何かの修行のようなものです。
学ぶ場で行われることではないと思います。

時折、必要なシーンできちんと姿勢を正す指示を出すことが大事であって、学びの場では、むしろリラックスさせたいものです。

当然だらっとさせるという意味ではありませんよ。いらない力を抜かせるということです。

足をぺたんとつけたままでは、そこに気持ちが行って、学ぶどころではありません。

緊張した脳では、考えをめぐらすことができないでしょう。

授業の要所で規律をただし緊張させたら、力を抜かせることも積極的にやりましょう。

往往にして、学校では緊張させっぱなしにする傾向があります。

だから、授業が終わった後、その反動で走って教室から飛び出て、ぶつかって怪我をするのです。


よく考えていることです。
子どもをいかに緊張から力を抜かせるか。
放っておくと,力が入りっぱなしになってしまうので,注意が必要だと思っています。
適切に緊張を抜くチャンスを作ってあげたいなと思っています。

時折笑いを入れることも重要。

研究授業などの協議会で、司会者が任された仕事をできないことがよくあります。

司会者に任されるのは、会を司ることです。司会が参加者の意見を引き出し、つなげ、なんらかの成果を導き出すことです。
そのためには、田原総一朗さんのように、どんどん関連意見や対立意見の人につなげ引き回していかなければなりません。、

でも、よく見られるのは、「何か質問はありませんか」「関連して何かありませんか」「それではお答えください」「ほかにはありませんか」「すでに意見も出されていますので、質問意見合わせてどうぞ」「もうありませんか。」「それでは講師の方のお話を聞きましょう」

これでは、それぞれが集まってめいめいに好きなことをしゃべっているのと何も変わりません。

司会は、出された意見をまとめ、分類し、深め、まとめる仕事をしなければならないのです。

これを学ぶには、うまい司会をみるしかない。でも現場にはそのような司会ができる人がどんどん減っています。

そこで、一つだけ、参考になればと思ってお伝えしたいことがあります。

それは、質問がでたら、それをなんらかのカテゴリーにいれるということです。

「今、目標に基づくてだてであったかどうかということについて質問が出されました。」のように。出された意見や質問を「目標に基づくてだて」というカテゴリーに一旦入れるのです。

そうして、目の前に広げた紙にそのカテゴリをまるで囲って書いておきます。

その上で「関連する意見があればどうぞ」といえば、司会は、そのカテゴリに従って会を進めていることが明確になります。エッジが立ったのです。

司会の仕方を改善するには、まず、これからして見てください。

協議に移る頃にはいくつかのカテゴリが出ているはずですので、司会がその中から重要だと考えるカテゴリを柱にします。司会が決めていいのです。司っているのは司会ですし、それを任されているのだからです。

「それではこれから◯◯について意見を求めます。」とやれば、少なくともそのことについての成果が得られます。

私は、20代のある日、そのような司会を見て瞠目し、それから自分で会議を引き回すことができるようになりました。

朝の健康観察は、できるだけ気持ちよく始めたいなあと思っています。

子どもが朝からふにゃふにゃしていると、つい喝を入れたくなります。
実際、若い頃は「もっと元気よく返事せんか」と大きな声で喝を入れていました。

しかし、その感覚は様々なことをそぎ落としてしまっています。
せめて「なんで元気がないのかな」と思うくらいの感覚は残してないとダメだなということに気づいたのは、教師になってからもう10年も経ってからのことでした。

しかし気づいてからも、子どもがふにゃふにゃしていると、「どうしたのかな?」よりも叱りたくなる気持ちの方が優ってしまうことがよくありました。

私自身のメンタルの問題です。
心の容れ物を大きくしなければなりませんでした。

デジタル日記で1日の振り返りをするようになってからです。子どものことを俯瞰して見られるようになったのは。

週記を、書くようになってからは、みるみる自分の容れ物が大きくなって行くのを感じました。

あの時あの子がこんなことをしたのは、こうだったからじゃないのか?と冷静に振り返ってみることを続けていると、それが自然にその場で行えるようになって行くのです。

子どものことをついしかりがちな人は、振り返り日記など、日次レビュー週次レビューをして見られることをお勧めします。

そのような記録を続けていると、ひとかたまりの成長記録ができます。

下の2冊は、上のようにしてした結果できた私の成長記録です。

また、今執筆している一年生学級通信の記事もそのような、私の自己訓練から生まれたものです。

よろしければご一読ください。

日本人学校の経験が,今の私をどのようにつくっているのか。当時のたくさんの記録と,膨大なジタバタ経験から述べました。
日本人学校への派遣前夜から,海外引越を経て,3年間にわたる生活について。 当時のパソコン通信などのIT事情 メモや手帳などで記録をすることの良さ などについて書いています。

一年生くらいの子どもによく見られますが、わざと叱られるようなことをする子はいませんか?

わたしも過去受け持ったことがあります。
何度叱っても聞かなくて、同じことを繰り返すんですよね。
若い頃は結構悩みました。

その頃、本を読んでおけばよかったのに、と思います。

「こうすれば怒ってもらえる」

何度言っても同じことを繰り返し、その度に叱られる子供は、こういうことをしたら叱すってもらえる=関わってもらえるという負の学習をしている可能性があります。

小さい子供におおいですが、中学年頃まで続くこともあります。

「親と子のアドラー心理学‘では

「いたずらをする、暴言を吐く、などそれらの子供の目標は、そうすることにょって大人を動かすことにあります〜ここで大人がやってはいけないのは、注目を与えることです。〜叱られチャリ叩かれチャリすることは、子供にとって不快なことであるはずなのに、親から無視されるよりは叱られても、叩かれても、そすいて注目を得ることの方が重要なのです」

とあります。

しかることによって望む結果を得ることができた子供はそれを繰り返してしまいます。
だから、不適切な行動以外の、当たり前のことができたときに注目してほしい、とあります。

しかし、注目を与えないということは、学級生活の中では難しいことですよね。
放置していたらどこかへ言ってしまうかもしれないし、他の子どもも「自分もやっていいんだ」といってやり始めてしまうこともあるし。

しかし、教師の方に子どもが怒ってもらいたがって繰り返しているのだという理解があると、余裕ができるものです。

たとえば、一言注意して周りの子にもいけないことをしているのだということを知らせた上で、「お勉強を続けましょう、そのうちもどってくるから」と言って勉強を続けるということが、あまり感情に波風を立てずにできるようになります。

つかず離れつの距離感といいますか。
そういうの、大事ですよね。

日本人学校の経験が,今の私をどのようにつくっているのか。当時のたくさんの記録と,膨大なジタバタ経験から述べました。
日本人学校への派遣前夜から,海外引越を経て,3年間にわたる生活について。 当時のパソコン通信などのIT事情 メモや手帳などで記録をすることの良さ などについて書いています。

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