Lyustyleの教育ちゃんねる

きょう,「知的生活ネットワーク」にこんな記事を書きました。

  どのようにしたら「量満ちてこそ質が高まる」を起こせるのか | 知的生活ネットワーク

量の積み重ねが質に高まるということはよく言われますが,ただたくさんやるだけではだめで,一つ一つの完成度を上げ,さらに積み重ねた了を捨て去り(とらわれず)新しいことに挑戦していくことが大事,という内容です。

教師の授業にそのままあてはまります。

私たち教師は年間1000時間近い授業を行います。

  飛行時間1000時間のパイロット、授業時間1000時間の教師 | 知的生活ネットワーク

この1000時間を単にこなしていたって,授業技術は高まりません。
教師を10年やって,いくら「授業時間10000時間の教師です」と,パイロットのように言っても,そく授業技術が高い教師ですということにはならないのです。
教師の授業においては,量は質に簡単には転換しません。

ですから,1時間1時間の授業の完成度を上げる努力をし,
それで成功したから次も・・・と思わずもっと新しいやり方を工夫しよう,
ということを続けていかなければならないんです。

1日6時間分の授業の準備なんて,今の学校現場では夢のまた夢です。
5時近くまで会議があって,勤務時間終了後にならないと,授業の準備ができないという現実があります。
そうかと思うと,調査やレポートをかかなきゃなりません。
書いていると,保護者からクレームの電話がなります。
対応しているうちに,身も心もぐだぐだになってしまいます。

・・・が,それでも自分に可能な限りやる,ということをしないかぎり,授業の腕は上がらない。
それは悲しいほど現実。

可能な限りでいいのです。
ほんのちょっとでも,前進したいものです。

わたしも そうしていきます。
いっしょにがんばりましょう。

farmer2016


 
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今朝,新聞に「夏休みを非行の入り口にしない」という政府広報が載っていました。

本校でも,ゴールデンウィークの前,家庭訪問で早く帰る日が続く時期には,
特別に生徒指導を行い,家庭にも注意喚起するようにしていました。

両親が共働きの過程では,子どもだけでいる時間が多くなり,そこがたまり場になることがあります。
ついたばこに手を伸ばしてみたり,マッチをすってみたくなったりなど,普段とは違った雰囲気の中では,普段とは違ったことをしてみたくなるもの。
これは,大人も同じですよね。

だから,子供の手の届くところに,お金や火遊び,喫煙などにつながるものをおかないことなど,ご家庭に伝えておく必要があるのです。
特に火遊びの場合,火災にしてしまったら,保護者の管理責任が問われ,大変な賠償をせまられることがあります。

 
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昨日と同じく声に出して読みたい教育者の名言50からです。
 

板倉聖宜氏は仮設実験授業で有名ですね。

「本当に自分の独創性を伸ばしたいなら,優れた他人の独創を模倣するのが一番」

「子どもは一流の科学者の模倣を,教師は酢触れた教師の模倣をするのが良いだろう」

味わい深い言葉です。
 

「人のまねをしてはいけません」と私たちはよくいいますけど,でもまず真似をして最初のハードルを越えるところから達成感がうまれるし,やりかたはわかるし,なによりできるようになる。いいところばかりです。


私はよく子どもたちが絵を描くときに困っていると,「真似をしてご覧。まねさせてね,と言ってさせてもらう真似はいいんだよ」と言います。
真似はだめだという言葉のうらには,アイデアのパクリはだめだ,という倫理観があると思うのですが,「真似させて」と堂々と宣言して行う真似はパクリではありません。


また,「真似させてもらうとき,少しだけ変えて真似してごらん」とも言います。そのままではなく,そこにほんのちょっぴり自分の工夫を入れる。


このことで,一気にタガが外れて,水が怒涛のように放流されるように一気に表現が進むことがよくあります。


もともと「学ぶ」ということばは「まねぶ」からきているともいいます。


あるミュージシャンが,「音楽なんて昔から誰かの曲のまねでできてる」と言いましたが,それもそうでしょう。まねることから新しいものが生まれる。


ラファエロ工房とか,ダビンチ工房など,昔は徒弟が親方の技を真似しながら身に着けていったわけで,そのうちその技が自分のものになったところで自分なりのものが生まれ始めるのです。


独創的であろう,そのためには人のまねはしないと決めて独創をひねりだせるのは天才だけ。


だから,自分だけのものをつくるために真似をしたらいいんです。


オリジナルに敬意を払ったうえで。

gakugeikai
 

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 「だれも学べていないのに教えたというのなら,だれも買っていないのに売ったというのと同じだ」 

今月の総合教育技術の付録についていた「声に出して読みたい教育者の名言50」という冊子から,ジョン・デューイの言葉です。


ぱらぱらとめくっているうちにピンと目に留まりました。


これって,結構起きていることじゃないのかな・・・

教育は,教える教師と学ぶ教師との関係で生まれてきます。私たちは,子どもがうまく学べるように一生懸命に準備をします。そして,発問の一つ一つに磨きをかけて授業に臨むわけです。


ところが年に1000時間ほどある授業時間すべてをそのようにしたいと思ってもなかなかできるものではありません。

時には,カリキュラムを進めることを優先してしまうこともあります。

そう,ちょうど学期末の今のように・・・。


そのとき私たちが言う言葉

「ここ,勉強したよね」
hai
 


確かに今までそのページを勉強していたので,子どもたちは「はーい!」と元気に返事をします。

これで安心。


ところが,子どもが学べたのか?と問うと必ずしもそうではありません。そうですよね。


まさに,実際には学べていないのに,教えたということにして先へ進んでしまっているのです。


何をもって「学んだ」というのか,ということについてはここでは述べませんが,「今日は,本当に子どもたちは学べたのですか?」という問に,直感的,経験的に「はっ・・・教えたつもりだが学べたとは言えない・・・」ということがあるなら,その思いを大事にして次の授業に臨みたいものだと思います。
 

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むかーし,まだ私が若いころ,研究サークルで劇をすることになりました。
ちょっとした寸劇程度のものではなく,それなりの指導者をお迎えし,市民センターのホールを借りて上演するかなり気合の入ったものでした。
そこで,私はある役をしたのですが,何せしろうと。見よう見まねで必死にセリフをおぼで演技をしました。
指導者の方はギロリをした目で私の演技を見ています。
身がすくむ思いです。
こわかったのですが,私は意を決して自分なりの演技の工夫をしました。どんな工夫だったのかもう20数年も前の話なので忘れてしまいましたが,自分なりに考えた演技の工夫であったことは確かで,それを実際にやるにはすごい勇気が言ったことを覚えています。

しかし,やりおえた後,自分でも「しまった」と思いました。今なら「すべった・・」という言葉が頭をうずまいていたかもしれません。うまくいかなかったのです。完全に失敗でした。
指導者の目がさらに大きく見開かれ,ギロリギロリと私をみながら歩いて見えます。
心の中で,
(わあ,すみません,すみません・・・いわれたとおりにしますから,おこらないでください・・・)
そう願いながら,じっとうつむいていました。
するとその方がいったのです。

「よい,工夫でした。○○したかったんですね。それなら,このようにしたほうがもっとよくなるよ。」

どうでしょう。その時の私の気持ちを共感してもらえたらうれしいのですが。
私は心からほっとしたのです。
そして,演技の工夫をすることへの勇気が湧いてきました。その後,自分で一生懸命工夫しながら,公演当日は自分で満足できる演技をすることができたのでした。

もし,私がその指導者の方に「なんだね。その演技は」と言われていたらと思うとぞっとします。
24歳の私は,こわくてその後自分から表現の工夫をするということをやめたでしょう。
そして言われたとおりにするロボットになっていたと思います。
まさにアドラーのいう「勇気くじき」となっていたはずです。

このことは私の教師としての生き方にとってわすれられない出来事になりました。
子どもが自ら工夫したことについては,決してけなしたりしかったりしてはならない。
その工夫を認めたうえで,さらにこうしたら,という助言を与えること。

図画工作科の研究をする教師として歩みだそうとしていた私は,子どもの絵や工作の表現の場でもかたくそれを守り続けてきました。
子どもが絵を描いていると,時には教師が「ここにこの色を塗ったらぐっとよくなるな」と思うこととまったく違う色をぬっていることがあります。
そんなとき,
「なんで,こんな色でぬったんだ」
とけなしたらどうなるでしょう。
子どもは一生懸命に考えてその色を選んでぬったのです。
それをそんな風に言われたら,「ごめんなさい。言われた色を塗ります。どの色を塗ったらいいんですか?」
となります。
こうなったらもう「情操を豊かにする」ことを教科目標にしている図画工作科の授業ではなくなってしまいます。

そんな言葉を決して子どもにかけない。

そうして,対話をしながら,その子が考えているよりよいイメージに向かって支援するというスタイルを守ってきました。

子どもが,「失敗した・・なんでこんな色になったんだ・・」と思っているなら,修正の方法を教えました。
子どもが,その色を自分の渾身の工夫からつけたものなら,そのことを認め,その子が必要とするならさらに良い方法を教えてきました。

その子どもの工夫,考えに勇気を与える。
これはとても大切なことだと思い続けています。
 
IMG_0428
(県の展覧会の写真 本文とは関係ありません)



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「手のかからない子をほったらかしにしていませんか」

「夢をかなえるぞう」という本がありましたかその中でガネーシャがこのようなことを言っています。

これは一般の社会のことの中で言われていますが、そのまま教室にも当てはまります
私たち教師の目はおうおうにしてクラスの中で目立つ子、クラスをかき乱す子、そのような子たちにエネルギーを注ぎがちです。

すぐに騒いだり、毎日忘れ物をしたり、友達といさかいばかり起こしたり。そんな子どもが私達は気になって気になってしかたがないのです。だから何かにつけてその子にかかわってしまいます。

しかしその子がはなばなしく(?)教師から叱られたり名前を連呼されたりしているかげで、静かに一生懸命に勉強に取り組んでいる子どもがいるのです。
そのような手のかからない子は、ともすれば静かにしているがゆえにほったらかされてしまうことがおうおうにしてあります。
でも、そういう大部分の手のかからない子どもに、私達は支えられているんです。

一日の何処かでそっとその子どもに近づき、「一生懸命おべんきょうしているね」とか「今日は楽しそうだね。なにかうれしいことがあったかな」とか、何らかの声掛けをしたいものですね。
 
その子どもたちが安心して、そして嬉しく通える教室づくりの第一歩だと思います。 
 
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以前、下のような記事を書きました。

この春の異動者の方へ。異動による「うつ」をうまく避けましょう。 | 知的生活ネットワーク

「異動鬱」というのがあるようで、新しい環境になじめずに気持ちがふさいでしまうことがよくあります。
その時期を乗り切ったら後は何でもないのですが、ふさいでいる最中は、朝起きるのがつらかったり、前の職場を思い出しては帰りたくなったり など、なかなかつらいものです。

私もなんどもそれを経験してきましたが、 結局はそういう自分を受け入れることが大事かと思います。
「ああ、自分は今、異動による鬱をあじわっているのだなあ」という具合です。

もうひとつは、その環境に自分の居場所をつくる、つまりわかってもらう、認知してもらう事だと思います。そうすることで迎える方が「新しい仲間だ」と思ってくれるようになるし、自然に居場所もできてきます。

そうして最後に、自分でも一番よいと思っていること。
それは、「今に集中する」ということです。
気持ちがふさいでくると、頭がそっちの方に引っ張られていきますが、すぐに今していることに気持ちを戻すのです。
そして呪文。
「今、このことに集中。」
「今を大事に」
などを自分に向かって投げかけます。

すると、いつのまにかふさぐ気持ちもどこかへ行き、気付いたら乗り越えているということがよくあります。

ゴールデンウィークが終わる当たりが勝負所。

気持ちの良い5月を味わいながら一歩一歩大事に積み重ねをしていきましょう。



 
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子どもたちに何かお話をしてあげようというと、大喜びでリクエストされるのが怖い話。

その時に、まともに怖い話をするときまってトラウマになる子どもが出て、夜寝られなかったとか、トイレに行けなかったとかいろいろと言われるので、そこをうまいことやらなければなりません。
最後に「うそだよ〜ん」というのはお約束です。

でも、夜中の教室はこわいですよ。
真っ暗な窓からなにかがのぞいていそうで。

私がまだ若い頃、明日の授業参観のための背面黒板の掲示ができていなくて、夜遅くまで残って子どもたちの絵を貼っていた時のことです。

後ろのランドセル棚の上にのぼって、画鋲と画用紙をうまく操りながら一枚一枚貼っていました。

時刻は23時30分。外は真っ暗。こちらはこうこうと電気が付いているのだから、4Fとはいえ外からは丸見え。というか、そんな時間に教室をのぞく人がいるなんてことはほとんどないだろう。
「じゃ、だれがのぞくんだよう」と心のなかの私がへたれた声をだしています。
そんな時間に、教室で絵を貼っていることのほうがよっぽどこわい。

そんなガクガクブルブルの時に、「ばさっ!」とやたらを大きな音がしました。
「おぅっ!!」
びっくりして後ろを振り返ります。
何もいません。

しかし、私はなにかに見つめられているのがよくわかるのです。
(何・・・何だ? 私はこの歳にして(25歳)、生まれて初めて心霊体験をしてしまうのか?いやだ。これまで私は霊を見るなんていう経験はない。私にはそんな能力はない。だからこれからもぜひ霊が見える人でありたくない!)
なんてことを思いながら、いったい私を見つめているのはだれか、と息をひそめました。

すると、私を見つめているものの正体がわかりました。
その瞬間、わたしは「ぎゃっ!」と叫んで棚から転げ落ちそうになりました。

私を見つめていたのは本だったのです。
ばさっという音とともに床に落ちた本の表紙・・・。
その本の表紙に両目の部分だけ大写しにされた顔。
「恐怖の心霊写真集」という、子どもが持ち込んだ本の表紙に印刷された、「窓に大きく移った霊の顔」という写真でした。

表紙の写真とはいえ、まともに霊と顔を合わせてしまったのです。

もう耐えられません。
まだ画用紙貼りが半分ものこっていたのに、私は速攻で荷物をまとめて後ろを見ずに階段を駆け下りました。本をそのままにして。

驚くべき事に、職員室にはまだ一人の同僚が残っていました。
同僚は私がどたどたと職員室に入ってきたのでびっくりしていましたが、私の話で二人で大笑いしました。

この話は、これまで結構子どもたちにしてきました。
こわいけど、あまりこわくない話だと思うんですが、それでもやはり子どもたちにとってはこわかったみたいですね。
だから、ここ10年位はしていません。

教師を30年もしているとこんな話がいっぱいありますよ。

でも、なぜ風でも地震でもないのに、たくさん本がある中でよりにもよって「恐怖の心霊写真集」が床に落ちたのか、それはなぞです。


 
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Evernote先生の第10話をアップしました。

【お話】Evernote先生 江波野徹の一日〜第10話 会議 | 知的生活ネットワーク







手帳やメモの一元化なんていうのは、がしがしうごきまわる教師には無理。
そうでなくて、あれに書いたりこれに書いたりなど、メモを多元化を前提として、その出口を一元化する。すなわちEvernoteに。

というようなことを書いています。

Evernoteが登場する前は、私みたいなメモを一元化できない人間は、そのメモをどこに集約するのか、まいにち四苦八苦していたものです。


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始業式で思い出す事がいくつかありますが、そのひとつに「あかちゃんだっこ」があります。

昨日の記事でかいた子どもたちが4年生になる日の始業式。
3年生の仲間とも、そして担任である私ともお別れする日です。
その日の朝は、旧担任として、朝の教室に入ります。
そこで「3年生は楽しかったね。4年生になっても元気でね」とみんなにわかれを述べました。
「さあ、今から始業式があるよ。そのあと、学級編制があるからこれでおわかれだ。みんなろうかにならぼうね」と言って歩き出した時です。

ひとりの女の子がわたしの前に立ちました。
そして言うのです。
「先生、だっこして」

子どもをだっこするというのはとてもすてきなことですが、今の時代は簡単にだっこなんてできやしません。20年くらい前まではさほど気にせず、よく子どもたちをだっこしていました。しかし、今の時代、特に男性が女の子をだっこするなどということは、妙な詮索をする大人にとっては格好の話題の種となってしまうことがあります。だから、近頃は子どもをだっこするというようなことがしにくいのです。

その時も「もうおねえさんになっているのだから、だっこなんて・・・」とことわろうとしました。
しかし、その女の子の目はせっぱつまっていたのです。
私はことわるのをやめました。
「いいよ」といって、その子をだきあげました。
すると、その子が私の首に手をまわし、さらに足までからだにまきつけて、ぎゅーっとだきつくのです。顔は私の胸におしつけてじっとしています。
まさに、あかちゃんのだっこです。
私は、「ああ、必死にお別れをしようとしているんだな」と思いました。
そして、私も抱き上げた手にぎゅっと力をいれてやりました。

しばらく・・とは言っても、おそらく10秒くらいの時間でしかなかったでしょう。
その女の子は、すっと顔を上げると、自分からぱっと床におりたちました。

そしてさっぱりした顔で「先生、さよなら!」といってろうかにはしっていったんです。

こころゆくまでだっこしてもらって、気持ちがふっきれたのでしょう。切羽詰まった顔はなくなり、不安のない、安心した顔になっていたのを思い出します。

子どもは、ぎゅーっとしてやることで安心して後ろを見ずに飛び立っていけるものです。
どこかでぎゅーっとしてやらなければならない子どももいます。

そんなことを、始業式になると思い出します。

その子も、今は高校2年生になっているのですけれども。


 
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