Lyustyleの教育ちゃんねる

このたび,本を書きました。
AmazonのKDPを利用しての出版です。
 

25年前からのパソコン通信


在外日本人学校への派遣や海外での生活
当時のメモ,手帳による記録の仕方
パソコン通信などについて書いています。

私が日本人学校に派遣されたのはもう25年も前のことになります。
帰国するときに,3年間の学びを1冊の本にまとめました。
それから20数年たった今,海外で生活をすることについての経験や,3年間記録を撮り続けたことの良さなどは,今でも通用するのではないかと思い,まとめようと思いました。

帰国の時にまとめた本から,生活編だけを切り取ったものです。
それでもかなりの分量があります。
Kindleによる読書をした場合の換算がAmazonに出ていましたが,265ページほどで,新書による書籍の少し厚い本くらいの量になりました。

以下でも紹介していただいています。

  『25年前からのパソコン通信』(Lyustyle) – Honkure

なぜ本を書こうと思ったのか

以前に出した本から20数年も経っての出版。
今更,なぜ本にしようとしたのかということについてお話します。

簡単に言えば,本記事のタイトルが主な理由です。
教師は,みんな本を書くべきだと,ずっと思ってきたのです。
年間1000時間ほどの授業実践をしながら,さまざまな経験を積み重ねてきた教師です。
その積み重ねが公になり,教師たちのデータベースとして蓄積されれば,それは教育界にとって大きな前進となると思ってきたからです。

もちろんデータベースのひとつとなるためには,Tossランドに寄稿したり,自分でサイトを作ったりするなどの方法はあります。
しかし,個々の教師が「〇〇ブックス」のように自分をきちんとブランディングして本を出すことで,自分が蓄積してきたさまざまな授業実践が形となって残り,それが他の教師の役に立てるということになるならそれは素晴らしいことではないかと思うのです。
ブログから一歩進んで,それらをまとめて本を作る。
ブログがなくても,これまでの自分の教育実践をまとめてみる。

 論文やレポートなどで教育実践をまとめた経験がある人は多いと思いますが,それとは大きくちがいます。
本を書くということは,自分の責任でちゃんとしたものをつくるということでもあり,書きっぱなしではなくたくさんの人に読んでいただくものをつくり,その価値を世に問うというものでもあります。
 教育論文などは,書くこと自体に価値がある,というようなところがあり,私の場合,それが公にされてみんなが読めるようになるというようなところまではあまり考えずに書いてきました。
 また,募集をする団体もそれを公にするのは上位の数点のみです。
 ですから,論文などは自分の実績として残るのみで,その論文が教師にとって役に立つものなのかどうかは分からないままになってしまっています。

 そういうことはとてももったいない。ぜひ,本にしてみんなが買って読めるようになったらどんなに素晴らしいかと思います。
 
 しかし,これまでは教師が本を出すなどということはとてもできないことでした。雑誌などに寄稿しているうちに編集者の目に留まって執筆依頼が来てみたり,話題になるような教育実践を生み出して有名になって執筆依頼が来たり,など,一部の人だけができることでした。
 
 ところが2012年にアマゾンでKDP(Kindle ダイレクトパブリッシング)がスタートしたことによって,だれでもアマゾンで本を売ることができるようになりました。
 通信環境とワープロさえあれば,だれでも本を出せるのです。
 そういう時代になりました。

 このサービスを利用すれば,教師は教育界の一つの財産を創り出すことができます。出版社の編集者の目に留まるような話題性のある教育実践でなくても,地道に行ってきたことに素晴らしい価値のあるものがたくさんあるはずです。

 そこで2012年にKDPが始まったときからそれを利用して本を出版することに挑戦してきました。
 一度書いた本のリニューアルは結構時間がかかります。構成をどのようにするかということについて深く考える必要があり,この間何度も中断してきましたが,この夏に再開して一気に仕上げました。

 私の場合は中断に次ぐ中断で4年もかかってしまいましたが,ゼロから書き始めていればきっとかなり早くかき上げられていたと思います。
 分量も,KDPで電子書籍として売られている本の多くは私のような分厚いものではなく,そんなにハードルの高いものではありません。数か月もかからずに一冊の本ができると思います。

 ですから,教師のみなさん,はぜひ,ご自分の持っている膨大な教育実践を本にまとめらるということの挑戦されてはいかがでしょうか。
 価値あると思うものを10テーマほど選び,ワープロでまとめれば,あとはガイドに従ってアップロードするだけです。
 これは,自分にとっても振り返りとなり,ご自身の教育に関する知見をさらに豊かにすることになると思います。
 もちろん,収入が生まれますので,公務員としては所属の監督機関に兼業の届けなど必要な許可を得る必要があると思いますので,ご確認ください。
 
 今回,自分で出版をためしてみたかったので,一度書いた本のリニューアルをしました。だから,教育に関する実践の本とはなっていません。
 しかし,これをきっかけに教育関係の本をKDPで出していくつもりです。





 

 
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8月1日に,次期指導要領の審議まとめ案がだされました。

英語を小5から教科化 中教審部会が次期指導要領案 (西日本新聞) - Yahoo!ニュース

「中教審の特別部会は1日、次期学習指導要領の全体像を示す審議まとめ案を公表
小学校5、6年の外国語活動を3年生からに前倒し
高学年では英語の教科に格上げし授業時間を倍増
小中高校の全教科で、自ら考えながら学ぶ新たな学習方法「アクティブ・ラーニング」を取り入れる」
以上のような点が取りざたされています。

「小学校で純増する授業時間の確保や、教育の質の向上と多忙な教員の負担軽減を両立する具体策が課題となる。」
記事には,以上のように書かれていて,よくわかってらっしゃるなという感想です。
学習内容の削減をせず,時間だけが増えることになります。

このあたり,実際はどう考えられているのかなというのが正直な感想です。
授業をするには準備をしなければならないのですが,その時間がどう考量しているのかという率直な疑問がわいてきます。

授業を1時間するのには1時間以上の準備が必要なのですが,勤務時間には教える時間しか考慮されていません。
教師は自宅に持ち帰って(早く帰るように指導がされている)翌日の教材研究をするわけですが,これは深夜に及ぶこともたびたび。というかそれが教師のライフスタイルのようになっています。
翌日,子どもが「わかった!」という顔をしてくれるためにはそうせざるを得ないのです。

その状況の中でさらに時間増。
まるで授業時間が増えれば学力はますだろうといわんばかりです。
教育の質を考慮すべきです。


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授業研究会。
午前で子どもたちを帰して、会場校に移動します。
研究授業を参観した後、その授業をもとに協議会をするのです。

授業校になったら、教頭先生や教務の先生は他校からの参観者を迎える準備で大変です。
協議会場までの案内表示をしたり、協議会場に机を並べたり、運動場を駐車場にするために車を誘導したり。

 授業は、採用数年目の若い先生が行いました。 夏休みからずっと、近隣の学校の、その教科の研究委員の先生たちに指導をしてもらい何度も指導案を書き直して今日の授業日を迎えました。

案を立てるのに苦労するだけではありません。

その授業を実際におこなうことができるように子どもたちをそこまで育てていなければなりません。
また、決めた授業をその日その時間にぴたっと行うことができるように、授業の進度調整もしなければなりません。
教室の環境作りにも気を遣います。
途中で進め方や発問を忘れることがないよう、事前に何度も練習したり、黒板に書く内容や位置などを覚えたりもします。 .

これらさまざまなことに気を遣いつつ、授業者は自分の健康にも気を配りつつ授業当日を迎えます。

何十人もの先生たちが教室に入ってじっと自分の授業を見ている、という独特の雰囲気の中、授業の案どおりにすすめていきます。

時にはイレギュラーがあって、思うように進められないこともありますが、そこを必死にリカバリーしながら授業を終えます。

子どもたちに「よくがんばったね!」とほめて帰した後、まな板の上の鯉になりに、協議会場に向かい、そこで質問責めにあうのです。 ・ ・

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photo credit: ♥ Jaye

こうした研究授業。 明治時代の頃から行われていたそうです。明治時代以来の日本の教育の文化でした。
アメリカの学者が世界の教師の教授法を検討したところ、日本の授業者の授業が一番理想に近かった。
その理想というのは、教師が教えるのではなく、子供が自ら考えて解決して答えを見つけ出す授業です。日本の教師の指導法がいちばんこれに近かったというのです。 .
その理由を調べたところ「日本では研究授業なるものを行っている。これがよい授業を生む秘密だ」と結論し、本にまとめたところ世界中でベストセラーになり、現在、研究授業が世界中で行われるようになってきたとのこと。
しかし、当の日本では、忙しいことを理由にだんだんおこなわれなくなっていること・・・そのようなことを聞いてきました。
上の文章は、以前の自分のエントリー「研究授業か授業研究か」から抜き出したものです。]

世界から認められた文化である研究授業。

私たち教師は、若い頃からこれを何度も繰り返して授業力向上につとめてきました。
やればやるだけ、自分の授業力向上に役立ちます。

研究授業当日までの道のりは確かにいばらの道ですが、これを越えたときのうれしさ、充足感は格別です。
そして、確実に自分の身になっていきます。(身にしよう、と思っていたらですが) .

研究授業はやったもの勝ちなところがあり、私も過去27年間の授業者生活の中で1年間一度も指導案を書いて研究授業を行わなかったのは1年間だけでした。

教務主任であったときにも毎年手を挙げて研究授業をさせてもらいました。

大変ではありますが、それだけオイシイのです。 .

若い先生方には、ぜひ、自分から研究授業の授業者に手を挙げてもらえればと思います。 Class room photo credit: Leo-setä
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授業研究や、研究授業の旅に配られる指導案。
授業前に熟読しておいてメモを入れておき、授業中は気づきや改善点、疑問などを書き込んで協議会で生かします。


その指導案、協議会が終わったらファイルに綴じ混んで,そのまま放置していませんか。だとしたらとてももったいないですよ。


メモが書き込まれた指導案は、自分の授業への気づきの宝庫なのです。


私の教育観をもとに、もてる授業技術や教科についての知識、これまでの経験を総動員してできあがった、現時点での私の教育における最高の知的生産物です。

それは、自分の教育観の醸成のために蓄積される価値のあるもので、指導案に書かれた学んだことや気づきのメモを書きぬいてためておくことで、自分の授業力向上に役立つ貴重なデータベースとなり得るものです。


しかし、私がそのことに気づいたのは教師になってからもうずいぶん後のことでした。

ずいぶん長いこと、私は自分の指導案は大事にとっておいても、他の教師の指導案はただファイルに綴じておくだけ。時には年度が変わったり学校を異動したりするときに捨ててしまったことさえあります。


なんて勿体無いことをしてしまったのかなと思います。


中には異校種勤務のときの、今の勤務校では見ることのできない貴重な指導案も含まれています。


それに気づいてからは、私は、指導案を明確に授業力向上データベースのソースであると位置づけ、振り返りによって気づきをや学びを書き出し、蓄積するようにしています。


ただファイルしてとっておくだけでもいいかもしれませんが、振り返ることと、自分のフィルターを通した気づき、学びを取り出して整理しておくことが大事だと考えています。その方が意識に残りやすいし、必要なときに取り出しやすいからです。


幸運なことに今でも残っている昔の指導案などを,ときには眺め直してみて、10数年前の、ときには20年以上も前の自分の書き込んでいる気づきから、今の自分の成長を確かめてみるのもいいなと思っています。

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福岡市美術館では,ゴジラ展が始まりました。見に行かなきゃね。

 

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きょう,「知的生活ネットワーク」にこんな記事を書きました。

  どのようにしたら「量満ちてこそ質が高まる」を起こせるのか | 知的生活ネットワーク

量の積み重ねが質に高まるということはよく言われますが,ただたくさんやるだけではだめで,一つ一つの完成度を上げ,さらに積み重ねた了を捨て去り(とらわれず)新しいことに挑戦していくことが大事,という内容です。

教師の授業にそのままあてはまります。

私たち教師は年間1000時間近い授業を行います。

  飛行時間1000時間のパイロット、授業時間1000時間の教師 | 知的生活ネットワーク

この1000時間を単にこなしていたって,授業技術は高まりません。
教師を10年やって,いくら「授業時間10000時間の教師です」と,パイロットのように言っても,そく授業技術が高い教師ですということにはならないのです。
教師の授業においては,量は質に簡単には転換しません。

ですから,1時間1時間の授業の完成度を上げる努力をし,
それで成功したから次も・・・と思わずもっと新しいやり方を工夫しよう,
ということを続けていかなければならないんです。

1日6時間分の授業の準備なんて,今の学校現場では夢のまた夢です。
5時近くまで会議があって,勤務時間終了後にならないと,授業の準備ができないという現実があります。
そうかと思うと,調査やレポートをかかなきゃなりません。
書いていると,保護者からクレームの電話がなります。
対応しているうちに,身も心もぐだぐだになってしまいます。

・・・が,それでも自分に可能な限りやる,ということをしないかぎり,授業の腕は上がらない。
それは悲しいほど現実。

可能な限りでいいのです。
ほんのちょっとでも,前進したいものです。

わたしも そうしていきます。
いっしょにがんばりましょう。

farmer2016


 
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今朝,新聞に「夏休みを非行の入り口にしない」という政府広報が載っていました。

本校でも,ゴールデンウィークの前,家庭訪問で早く帰る日が続く時期には,
特別に生徒指導を行い,家庭にも注意喚起するようにしていました。

両親が共働きの過程では,子どもだけでいる時間が多くなり,そこがたまり場になることがあります。
ついたばこに手を伸ばしてみたり,マッチをすってみたくなったりなど,普段とは違った雰囲気の中では,普段とは違ったことをしてみたくなるもの。
これは,大人も同じですよね。

だから,子供の手の届くところに,お金や火遊び,喫煙などにつながるものをおかないことなど,ご家庭に伝えておく必要があるのです。
特に火遊びの場合,火災にしてしまったら,保護者の管理責任が問われ,大変な賠償をせまられることがあります。

 
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昨日と同じく声に出して読みたい教育者の名言50からです。
 

板倉聖宜氏は仮設実験授業で有名ですね。

「本当に自分の独創性を伸ばしたいなら,優れた他人の独創を模倣するのが一番」

「子どもは一流の科学者の模倣を,教師は酢触れた教師の模倣をするのが良いだろう」

味わい深い言葉です。
 

「人のまねをしてはいけません」と私たちはよくいいますけど,でもまず真似をして最初のハードルを越えるところから達成感がうまれるし,やりかたはわかるし,なによりできるようになる。いいところばかりです。


私はよく子どもたちが絵を描くときに困っていると,「真似をしてご覧。まねさせてね,と言ってさせてもらう真似はいいんだよ」と言います。
真似はだめだという言葉のうらには,アイデアのパクリはだめだ,という倫理観があると思うのですが,「真似させて」と堂々と宣言して行う真似はパクリではありません。


また,「真似させてもらうとき,少しだけ変えて真似してごらん」とも言います。そのままではなく,そこにほんのちょっぴり自分の工夫を入れる。


このことで,一気にタガが外れて,水が怒涛のように放流されるように一気に表現が進むことがよくあります。


もともと「学ぶ」ということばは「まねぶ」からきているともいいます。


あるミュージシャンが,「音楽なんて昔から誰かの曲のまねでできてる」と言いましたが,それもそうでしょう。まねることから新しいものが生まれる。


ラファエロ工房とか,ダビンチ工房など,昔は徒弟が親方の技を真似しながら身に着けていったわけで,そのうちその技が自分のものになったところで自分なりのものが生まれ始めるのです。


独創的であろう,そのためには人のまねはしないと決めて独創をひねりだせるのは天才だけ。


だから,自分だけのものをつくるために真似をしたらいいんです。


オリジナルに敬意を払ったうえで。

gakugeikai
 

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 「だれも学べていないのに教えたというのなら,だれも買っていないのに売ったというのと同じだ」 

今月の総合教育技術の付録についていた「声に出して読みたい教育者の名言50」という冊子から,ジョン・デューイの言葉です。


ぱらぱらとめくっているうちにピンと目に留まりました。


これって,結構起きていることじゃないのかな・・・

教育は,教える教師と学ぶ教師との関係で生まれてきます。私たちは,子どもがうまく学べるように一生懸命に準備をします。そして,発問の一つ一つに磨きをかけて授業に臨むわけです。


ところが年に1000時間ほどある授業時間すべてをそのようにしたいと思ってもなかなかできるものではありません。

時には,カリキュラムを進めることを優先してしまうこともあります。

そう,ちょうど学期末の今のように・・・。


そのとき私たちが言う言葉

「ここ,勉強したよね」
hai
 


確かに今までそのページを勉強していたので,子どもたちは「はーい!」と元気に返事をします。

これで安心。


ところが,子どもが学べたのか?と問うと必ずしもそうではありません。そうですよね。


まさに,実際には学べていないのに,教えたということにして先へ進んでしまっているのです。


何をもって「学んだ」というのか,ということについてはここでは述べませんが,「今日は,本当に子どもたちは学べたのですか?」という問に,直感的,経験的に「はっ・・・教えたつもりだが学べたとは言えない・・・」ということがあるなら,その思いを大事にして次の授業に臨みたいものだと思います。
 

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むかーし,まだ私が若いころ,研究サークルで劇をすることになりました。
ちょっとした寸劇程度のものではなく,それなりの指導者をお迎えし,市民センターのホールを借りて上演するかなり気合の入ったものでした。
そこで,私はある役をしたのですが,何せしろうと。見よう見まねで必死にセリフをおぼで演技をしました。
指導者の方はギロリをした目で私の演技を見ています。
身がすくむ思いです。
こわかったのですが,私は意を決して自分なりの演技の工夫をしました。どんな工夫だったのかもう20数年も前の話なので忘れてしまいましたが,自分なりに考えた演技の工夫であったことは確かで,それを実際にやるにはすごい勇気が言ったことを覚えています。

しかし,やりおえた後,自分でも「しまった」と思いました。今なら「すべった・・」という言葉が頭をうずまいていたかもしれません。うまくいかなかったのです。完全に失敗でした。
指導者の目がさらに大きく見開かれ,ギロリギロリと私をみながら歩いて見えます。
心の中で,
(わあ,すみません,すみません・・・いわれたとおりにしますから,おこらないでください・・・)
そう願いながら,じっとうつむいていました。
するとその方がいったのです。

「よい,工夫でした。○○したかったんですね。それなら,このようにしたほうがもっとよくなるよ。」

どうでしょう。その時の私の気持ちを共感してもらえたらうれしいのですが。
私は心からほっとしたのです。
そして,演技の工夫をすることへの勇気が湧いてきました。その後,自分で一生懸命工夫しながら,公演当日は自分で満足できる演技をすることができたのでした。

もし,私がその指導者の方に「なんだね。その演技は」と言われていたらと思うとぞっとします。
24歳の私は,こわくてその後自分から表現の工夫をするということをやめたでしょう。
そして言われたとおりにするロボットになっていたと思います。
まさにアドラーのいう「勇気くじき」となっていたはずです。

このことは私の教師としての生き方にとってわすれられない出来事になりました。
子どもが自ら工夫したことについては,決してけなしたりしかったりしてはならない。
その工夫を認めたうえで,さらにこうしたら,という助言を与えること。

図画工作科の研究をする教師として歩みだそうとしていた私は,子どもの絵や工作の表現の場でもかたくそれを守り続けてきました。
子どもが絵を描いていると,時には教師が「ここにこの色を塗ったらぐっとよくなるな」と思うこととまったく違う色をぬっていることがあります。
そんなとき,
「なんで,こんな色でぬったんだ」
とけなしたらどうなるでしょう。
子どもは一生懸命に考えてその色を選んでぬったのです。
それをそんな風に言われたら,「ごめんなさい。言われた色を塗ります。どの色を塗ったらいいんですか?」
となります。
こうなったらもう「情操を豊かにする」ことを教科目標にしている図画工作科の授業ではなくなってしまいます。

そんな言葉を決して子どもにかけない。

そうして,対話をしながら,その子が考えているよりよいイメージに向かって支援するというスタイルを守ってきました。

子どもが,「失敗した・・なんでこんな色になったんだ・・」と思っているなら,修正の方法を教えました。
子どもが,その色を自分の渾身の工夫からつけたものなら,そのことを認め,その子が必要とするならさらに良い方法を教えてきました。

その子どもの工夫,考えに勇気を与える。
これはとても大切なことだと思い続けています。
 
IMG_0428
(県の展覧会の写真 本文とは関係ありません)



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「手のかからない子をほったらかしにしていませんか」

「夢をかなえるぞう」という本がありましたかその中でガネーシャがこのようなことを言っています。

これは一般の社会のことの中で言われていますが、そのまま教室にも当てはまります
私たち教師の目はおうおうにしてクラスの中で目立つ子、クラスをかき乱す子、そのような子たちにエネルギーを注ぎがちです。

すぐに騒いだり、毎日忘れ物をしたり、友達といさかいばかり起こしたり。そんな子どもが私達は気になって気になってしかたがないのです。だから何かにつけてその子にかかわってしまいます。

しかしその子がはなばなしく(?)教師から叱られたり名前を連呼されたりしているかげで、静かに一生懸命に勉強に取り組んでいる子どもがいるのです。
そのような手のかからない子は、ともすれば静かにしているがゆえにほったらかされてしまうことがおうおうにしてあります。
でも、そういう大部分の手のかからない子どもに、私達は支えられているんです。

一日の何処かでそっとその子どもに近づき、「一生懸命おべんきょうしているね」とか「今日は楽しそうだね。なにかうれしいことがあったかな」とか、何らかの声掛けをしたいものですね。
 
その子どもたちが安心して、そして嬉しく通える教室づくりの第一歩だと思います。 
 
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