Lyustyleの教育ちゃんねる

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小学校のアイデア に参加中!
私のクラスでは年間を通して一度も残滓がないので、わざわざ給食室の調理業務員さんが表彰状を持ってきてくださったことがありました。
いつも完食なので、うちのクラスだけすこ〜し大盛りにしてくださってあったにもかかわらずです。 

完食はよいことです。でも昼休みまで残して無理やり全部食べさせるなどということをしていたわけではありません。

秘密は、というと、女子が恥ずかしがらずにおかわりをするということと、全員に必要な量をつぎ分けた上で、さらに食べたい子どもには残りを均等に(ほんの小指の先ほどになっても!)分けるということだと思います。

女子が恥ずかしがらずにおかわりをする

高学年の女子は、本当は食べたくても何か言われそうという気持ちが働いておかわりをしない傾向があります。
私のクラスでも同じでした。
そんなとき、私は残りをまず二つにわけます。
男子の分と女子の分です。
「おかわりをしたい人」というと、まず男子がわーとやってきて並びます。
その子どもたちにわけてやっていると、決まって「先生!女子がいらんなら、ぼくたちに分けてよ!」といってきます。
ここがねらいめ。
すかさず
「だめ。これは女子の分。男子の分ではありません。女子がいらないというのなら、残念ながら先生が全部いただきます」
ここまでいうと、女子が「しかたないなあ・・・・そんなら食べるか・・」というような顔でやってきます。
これでOK。
これを繰り返していると、いつの間にか女子も恥ずかしがらずにおかわりを求めてやってくるようになります。
私のクラスでは、給食の飯缶にのこったスープを飲み干そうとして私から叱られる女子もいたほどでした。

しかし、基本的には男女の仲がよいことが土台にあります。
日々の学級経営が大事なんですが、このような給食指導も男女がなかよくなっていくためのひとつの手立てになりえると思います。   

並んだ子ども全員に均等に分ける

よく見るのは、あまった給食をじゃんけんでわけるという方法です。
それでもいいのですが、そうすると「じゃんけんまでしていらないや」とか「じゃんけん、あまり強くないからいいや」「2回3回と勝ち抜いて最後でまけるとくやしすぎる」などさまざまな理由で出てこなくなる子どももるんです。

そこで、私は、ひとつのハンバーグが残ったら、まず上に書いたようにように男子と女子半分に分けます。
あとは、それぞれほしいという子どもを並ばせます。
半分のハンバーグについて、5人並ぼうが20人ならぼうが、私はそのハンバーグを並んだ数だけ均等に分けてやりました。
ほとんどかけら状態になったハンバーグを、並んだ子どもたちはみんな大事そうに満足してもらって帰ります。
子どもたちは、たとえかけらであろうと、もらえばそれだけで嬉しいのです。

カレーなどの場合も同様です。
男女にわけることはできませんが、並んだ数だけ分けるのは同じです。
おたまにほんのひとすくいのカレーを、子供たちのお皿に分けていきます。
もし並んだ子ども全員にくばった上でさらにあまったら
「第2次募集です」というと、
さらに欲しい子どもがまた並びます。
同じように、トロリとほんのわずかなルーをかけていきます。
最後のひとすくいまでなくなってしまいます。

こうして、私のクラスでは、年間を通じて残滓が一度もなく、子どもたちも満足して給食時間を楽しむことができましたよ。

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CNN.co.jp : パキスタンの学校襲撃 死者145人に マララさん「胸張り裂ける」 - (1/3)

イスラマバード(CNN) パキスタン北西部カイバル・パクトゥンクワ州の州都ペシャワルで起きた学校襲撃事件の死者は、17日朝までに少なくとも145人に上った。犯行グループは生徒たちを無差別に銃撃したという。 
本当に、なんといっていいのかとんでもない事件が起こりました。
シャリフ首相が「国家的悲劇だ」と語った、といいますが、その思いいかばかりでしょうか。

世界中の人が 信じられない思いで見守っていたのではないかと思います。

一夜明けた今日は死者が145人に増えていました。


どうしてこんなことができるのでしょう。タリバンによれば自分たちの子どもが殺された報復だといっていますが、報復からいったい何が生まれるというのでしょうか。

子ども達はどんなに怖かったでしょう。
生き残った子どもたちも、今後長く苦しむことになるだろうと思うと、そのこともつらいです。
この学校で勉強を続けることができな子どもも出てくるでしょう。

学校自体存続が危ぶまれます。


今日、学校では、学期末をまじかに控えて、無邪気な顔でお楽しみ会の準備をする子供たちの姿が見られました。
もうすぐクリスマス。子ども達は、楽しい、うれしい気持ちで、くさりをつくったり、プログラムを書いたりしていました。

平和に学校生活が営まれていることに感謝しつつ、亡くなった子供たちへの冥福を祈ります。
そして、生き残った子供たちの今後に光が当たり続けることを祈っています。

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寒い日、いちばん気をつけることは? に参加中!
北海道など以外では、一般的には教室に暖房はないんじゃないでしょうか。

12月となると、かなり寒い日が続きます。教室の中でも吐く息が白いというような日もあります。

それでも、40人近くの子どもがあつまればそこそこあったかくなるものです。
子ども達の熱気はすごいですから。
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そこで私たちが気を付けるのは、子どもの服ですね。

教室に入ってきたときに、上着を一枚脱がせるのです。
そして、教室から出る時に上に着ていくようにさせます。

気を付けておかないと、外でも教室の中でも、ジャンバーやオーバーをきたまま、という子どもがいることがあります。そういう子どもは、室内と室外の急激な気温の差にからだがついていけなくて風邪をひいてしまうことが多くなりますので、服の脱ぎ着で調節することができるように声をかけます。

そのためには一枚脱いでも大丈夫なような服の着方をしておく必要があります。

時々、Tシャツの上にグラウンドコートを着て、それを脱ぐとTシャツ一枚になってしまうので脱げませんというような子どもがいます。

だから、学級通信とか懇談会とかで、寒い時に一枚上に着たり脱いだりできるような服の着方をさせてもらうようにお願いします。

・・・・
でも、教師にとってはつらい時期です。
いくら教室があったかいとはいっても、子どもが感じる気温と大人が感じる気温は違います。
大人にとっては、極寒地獄のような教室です。
それでも、子どもと一緒に、または率先して上着を脱いでみせ、5分休みなどでは、窓を開け放して空気の入れ替えをします。

掃除時間も窓を開け放して、子どもと一緒にバケツの水をくんできて、ぞうきんを絞って床を吹きますよ。
子ども達は寒い寒いと大喜びですが、教師にとっては実に過酷です。

今は、そんな時期。これが3月の頭まで続きます。
 
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ブログネタ
サンタクロースにまつわる思い出は? に参加中!
このネタで書くのは2回目です。
結構かくことがあるなあと思います。

教育の現場にいると、サンタクロースに関するほほえましいことが結構あるものです。
でも、結構気を使うこともあるんですよ。
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「先生!〇〇ちゃんがサンタクロースなんていないといってます!本当なの?」
などと聞かれた日にはなんとこたえたらいいのか。

それぞれのご家庭でさまざまな教育がなされているので、 簡単には答えられないんですよ。

「いるよ」って断言してしまっていいのか。
将来その子から「先生がうそついた!」って言われるかもしれませんからね。

かといって
「いないよ。おうちの人が買ってきてくれるんだよ」なんて身も蓋もないこともいえません。
それこそ、おうちの方からなんていわれるかわかりませんからね。

だから、嘘でもないし本当でもない、どうともとれることをいいながら、その場をなんとかしのいで、とりあえず安心して帰すしかないんですよね。

よく使うのは
「先生はいると思うんだけど・・・・・」

そうすると、「そうか、先生もいると思ってるんだ」ととりあえず安心してその場を去ってくれます。

この、「・・・・・・」が大事。
そうしないと、
「先生はいると思うんだけど、〇〇ちゃんはいないといってるの?うーん」・・・とそれ以上何を言ったらいいのか、何を言っても困る結果になっていきそうです。
 


「先生、ぼく知ってるよ。サンタさんなんていないんだ。おうちの人が買ってくれくれるんだよ。」という子どももいます。
大人の世界をどこかで垣間見てしまったのでしょうか。
そんなときも、多くをいいません。
「そうなんだ。そうなんだねえ・・・・」
と余韻を持って答えます。
すると、子どもは
「うん、実はね・・・・」と続きを語るか、
安心してその場を去っていくか、
どちらにしても話を聞いてくれたという満足と安心で帰っていきます。

人さまざま。
家庭もさまざま。
人にはいろいろと事情がある。

サンタさんひとつでも、教育現場というのはかなり神経を使います。

一番困るのは
「先生!先生はサンタさんに何をお願いしたの?」
「先生!サンタさんになにもらった?わたしお人形!」
などというかわいらしい質問です。
1年生くらいまでですけどね。
・・・
「先生は大人だからもらわないんだよ」
というくらいが関の山でした。

こういう質問も、3年生くらいになるとなくなっていきます。

ここにもいろんな家庭の事情や心の成長などがあるんでしょうね。

 
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ブログネタ
サンタクロースにまつわる思い出は? に参加中!
サンタクロースを初めて意識したのは幼稚園の年長さんになってからで、それまではクリスマスだからプレゼントをもらう、というような意識がなかったです。

年長さんの時、12月25日の朝、おきたら 枕元にマシンガンのおもちゃがおいてあり、狂喜乱舞した覚えがあります。
僕は、ほしい時にほしいおもちゃを買ってもらう、という経験がありません。おもちゃは誕生日にしか買ってもらえないものだったので、デパートに行ってもおもちゃ売り場でただ見ているだけというのがおもちゃの楽しみ方だったのです。
だから、なんで誕生日でもないのに、おもちゃが、それも枕元においてあるのか、びっくりしました。

サンタさんという人に頼んで持ってきてもらったということを聞いて世の中にはすごいシステムがある、と思ったものです。
よく聞いてみると、

1.この子のほしいものをリサーチする(テレビのCMで目が釘づけになっているとか、話しにでてくるとか)
2.岩田屋(デパート)に行って、サンタさんにお願いするコーナーで頼んでくる。
3.デパートがサンタさんに頼んで、12月25日の朝、家に忍び込んでおいていく。

そのような仕組みのようでした。

もううれしくてうれしくてたまりませんでしたね。

1年生になったら、12月の24日が待ち遠しくてたまりません。
24日の夜には、生まれて初めてクリスマスパーティーというものも家で行われ、楽しさ、嬉しさ絶頂の中で布団に入りました。

大喜びであさ起きると、枕元にいろんなものが。
でも、ちょっと僕がほしかったものと違う。
サンタさん、間違えたのかな・・・・。

でも僕は小学校1年生までは本当にサンタクロースが贈り物をとどけてくれるものだと思ってました。

2年生になると、自分で父母へのプレゼントを買ってきて、夜渡したりしているうちに、(・・・・・!そういうことか)と思ったみたいです。

3年生のころには、サンタさんはいるかもしれないけど、僕にプレゼントをくれるのは、父と母だ、と思うようになっていました。

子どもができてからは、毎年プレゼントをあげています。

二人とも成人していますが、いまだに我が家ではサンタがいるとかいないとかいう会話はまったくされていませんので、とりあえず、お互い「いる」という暗黙の了解で、たんたんとプレゼントの交換がなされています。

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  挿絵工房 - クリスマス会するよー! - 挿絵箱

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今晩は!Lyustyleです。 

今日は、退勤処理の後に職場に残って勉強をしていたら、読んでいた本の中でこのような文言に出会いました。
「教師が説教したり、叱ったりして忘れ物がなくなるでしょうか。それはなかなかの難問です。かえって借りに来ることさえあきらめてしまうようになる子供もいます」
通常学級で使える「特別支援教育ハンドブック」という本です。

近頃は特別支援教育をしっかり学ばなければと思い、基本的な本を求めて読んでいるのですが、その中にあった文です。 むらむらと何かかかなきゃという気持ちになりましたので、今日はこんなことを書いてみたいと思います。

忘れ物をした子どもをしからないで済む「忘れ物カード」

忘れ物をして困っているのに、なぜ忘れ物をするのかを考えてしまいがちな私達

教師は、子供が忘れ物をすると「大変だ。何とかしなければ」と思います。
そしてつい忘れ物する根源を断とうとあせり、「叱る」ことで忘れ物をしないようにしようという気持ちを持たせようとすることがよくあります。(私も)

ところが、忘れ物をしたその時に必要なことは、とりあえずものを準備させてその時間の学習が困らないようにしてやることです。忘れ物がなくならない、ということと、その時間にものがないことで学習に支障をきたしていることとは別問題なのです。

それをどうしても教師は「困るのは、忘れ物をなくそうと努力しないからだ」という考えに支配されてしまって、ついお説教をしてしまうのです。
せっかく忘れました、と言いに来たのに。 (私も)

今必要なことは、学習に困らないように忘れたものを借りてこさせることです。そのために「忘れました」と自分から言ってこさせること、そして学習が始まる前にものを準備させておくことが必要です。

忘れ物をなくさせるための取り組みは、その時間に行うことではなく、学習後や放課後などに行うべきことなのです。

これがなかなかできず、せっかく勇気を出して来た子に説教し始めてしまう。

「何度も繰り返される」ことに対するいらだちでしょうか。
「あれだけ毎日貸してあげているのにまったく忘れ物をなくそうとしない。これは私が毎日最終的には貸してあげているから甘えているのだ。もう貸さないぞ!」というような心境になることもあります。

こうやって説教されると、冒頭にあったように子どもは「忘れました」といって借りにいくことをあきらめるようになるでしょう。あとで見つかっておこられても同じこと。

あきらめる子どもをつくらない忘れ物カード

しかし、これをふせぐ方法があります。 わたしが行ってきた「わすれものカード」です。
つくって20年以上になるでしょうか。 これをつくってからわたしは忘れ物で子供を説教することがなくなりました。 カード自体はいたって簡単。よくあるこんなカードです。   wasure

その学期、初めて忘れものをした子供にカードをわたします。

「月日」があります。「宿・もの」というのは、宿題忘れか、ものを忘れたのか、ということ。 よくあるカードです。

しかしここからがちがいます。 一番右に「何回目」かという欄があるんです。

子供がカードをもってきたら、「はい」といってすぐににカードを返します。 その時にこの「何回目」を見るのです。そうすれば「何度も繰り返している子か」それとも「今日はじめてその教科のものを忘れたのか」が一目でわかるのです。

このカードをつかっていなかった頃は、学習の始まりに子供がずらっとならんで「○○わすれました」というのを「わかった。」「はい」「次は忘れるな」と指導をし、授業をはじめていました。

ところが時にはたくさんの子が忘れて列が長くなることがあります。
10人くらいになってくるとだんだん腹がたってきて「なんだ!」などと声をはりあげてしまうようなことがあったのです。

普段から忘れている子は慣れていて要領がいいのでなるべく早く言いに来ます。
しかし列の後のほうにくる子たちは往々にしてむしろ普段あまりものを忘れない子たちであることが多かったのです。

よく忘れる子には叱らず、あまり忘れない子たちを叱ってしまう。

このことの反省から、わたしは忘れ物カードをつくり、「何回目」という欄をいれました。

これで、毎回忘れる子とめったに忘れない子がすぐにわかるようになり、理不尽な叱り方をせずともよくなりました。

また、よく忘れる子も、なんでもかんでも忘れるわけではなく、国語の教科書ばかり何度も忘れるとか、今日忘れた算数のノートは実は初めてだったとかそういうこともわかります。
だから、初めて忘れた算数のノートの時には「今度は忘れないようにね」と冷静にいうことができるのです。

このカードは子供にとってもいい。 さすがに回数のところに「4」と書かなければならない子は、こりゃなんとかしないといけないぞ、と自分で自覚するようになります。
自分がこの忘れ物をしやすいことが「見える」ようになるからです。 「回数」を書くという工夫だけで、子供たちとの学習が自然に進んでいくようになりました。 こうして「忘れました」と言いにくることをあきらめさせるようなことはなくなったといえます。  

むしろほめることさえできる忘れ物カードの運用

さらに、一言。私はこのカードを持ってくるときに、すでに友達に借りたものも添えてもってくるようにさせていました。

そして「先生。教科書、忘れました。でもとなりのクラスの子に借りてきました!」そういって、すでに借りてある教科書といっしょにカードを持ってこさせるのです。
これでその子は勉強に困らないし、「よし、ちゃんと借りてきたね」とほめることさえできるのでした。

さらにもうひとつ。

  最初に「その学期、初めて忘れものをした子供にカードをわたします。」と書きました。 javascript:void(0)

そうです。1学期が終わってこのカードをもたないままの子どももいるのです。

そんな子たちは手放しでほめました。 何とか最後までカードをもらわないで済ませようと一生懸命に準備をする子どももいました。

でも、6月になって初めてノートを忘れ、残念そうな顔でカードを貰いに来る子どものかわいらしい顔。

時々リセット

それでも、学期が変わったらリセットです。全員リセット。まったくゼロから開始です。

  今日はそんなことを思い出しました。  

追記

続きを書きました!

その2【教育現場の工夫】忘れ物をした子どもをしからないで済む「忘れ物カード」のふたつの秘密 | 教師の知的生活ネットワーク





追記 2014/11/28

この記事は、知的生活ネットワークより、こちらへ移動してきたものです。
  【教育現場の工夫】忘れ物をした子どもをしからないで済む「忘れ物カード」 | 教師の知的生活ネットワーク
こちらから移転してきました

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私たち教師は「研究授業」というものをやります。

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「指導案」という、授業の設計図をレジュメにして配り、他の教師たちが見ている前で授業を行い、あとからその授業の良しあしについて協議しあうのです。


この研究授業によって、若い教師は授業の腕を伸ばし、育っていきます。


今日、受けた研修で、研究授業は明治以来の日本の文化であることをしり、少々驚きました。

それと同時に、アメリカの学者が世界の教師の教授法を検討したところ、日本の十業者の授業が一番理想に近かった。その理想というのは、教師が教えるのではなく、子供が自ら考えて解決して答えを見つけ出す授業です。日本の教師の指導法がいちばんこれに近かったというのです。

その理由を調べたところ「日本では研究授業なるものを行っている。これがよい授業を生む秘密だ」と結論し、本にまとめたところ世界中でベストセラーになり、現在、研究授業が世界中で行われるようになってきたとのこと。しかし、当の日本では、忙しいことを理由にだんだんおこなわれなくなっていること・・・そのようなことを聞いてきました。


研究授業。私も毎年少なくとも1本は必ず指導案を書いて授業を見に来てもらってきました。今年で27年目になりますが、毎年必ず行ってきました。


その中で確かに授業の技、教材の研究のしかたなどを身につけてきたと思います。


ところが、いわゆる「研究授業」ばかりが行われ「授業研究」の視点があまり問われなくなってきているのではないかと思います。


「研究授業」とは、各学校が設定したテーマにより、仮説をたて、その仮説を実証するために行う授業です。授業後の協議会では、仮説を検証するための手だてが有効であったかどうか、が焦点となります。


しかしそこでは、授業の腕に関する部分がとわれることはありません。「言葉が早い」とか、「子供のほうを見ていない」とか「教師がしゃべりすぎる。もっと子どもにたくさん活動させる時間を・・」とか、そのような授業技術にかかわることは協議会ではあまり問われないのです。テーマ仮説の検証が優先であって、授業技術について話し合う時間はないのです。

かくして、せっかく研究授業のチャンスを得ながら、「授業が上手になる」ためのアドバイスなどはなかなか得られないのです。


このような授業の腕に視点を置いた授業を,「研究授業」にたいして「授業研究」という場合があります。

ことばを単にひっくり返しただけではありません。前者は仮説検証。後者は授業法自体に焦点を当てるという意味があるのです。


研究校に長くいると、仮説検証授業ばかりをおこないがちですからそれが当たり前のような感覚になります。

しかし、「授業が上手になりたい」という若い教師のねがいを実現するには、「授業研究」の視点も必要だと思うのです。

授業研究をたくさんおこなって、授業の腕をあげつづけていきたいものです。

2014/11/16 追記


 
研究授業か 授業研究か・・・・ | 教師の知的生活ネットワーク
こちらから移動してきました。

どうぞよろしくお願いします。
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人の話を最後まで聞く
これをするだけで、相手がこちらを信頼して安心して話をしてくれるのに、

途中で話をさしはさんだり、

「なんだ、そんな馬鹿なことしたのか」と評価したり

「そりゃ、お前が悪いだろ」と助言したり

「あ!なるほど!こうなるわけだ!」と予測して、おいしいところをもっていったり

 

そんなことをついしてしまうもんだから、相手は

「もういいや」「どうせきいてくれんし」

「途中で切らないで最後まではなさせて」

となって、心を閉ざしてしまう。

昔は、叱っている子どもが途中でだまりこくってしまうことがよくあった。

その気持ちがわからず、

「ちゃんと返事をしないか」

「どうしてこうしたのかきちんと言葉ではなさないか」など、

ずいぶん腹をたてて怒ったものだ。

 

当たり前だ。

話をしている途中で

「それで!!」と威圧的に先をうながしたり

「な~に~!!?」と怒りをあらわにしたり

 

それじゃ、何も言えなくなってしまって当たり前だ。

 

まず、聞く。

話し終わるまで、じっくりと聞く。

「はやく話終われ!」と願ったらだめだ。

顔や動作に出る。

はらをくくって、心を沈めて、とにかくまるごとその子をうけとめるつもりできく。

子どもが悩みや困りごとを話してくれるようになるにはそれしかない。

ちかごろすごくそう思う。
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追記2014/ 11/13

この記事はこちらから移転してきました。

人の話を最後まで聞く | 教師の知的生活ネットワーク
こちらから移転してきました。

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先日、文科省の方の話を聞く機会がありました。
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新しい指導要領が求めている学力を身につけさせる授業とはどんな授業なのかを多くのビデオクリップをもとにわかりやすく示していただきました。
 

内容についてはちょっと首を傾げざるを得ないところがありましたが、さすがに授業を何百本もご覧になっているだけあって、授業参観の視点は沢山お持ちだなと思いました。


たとえば、「先生のこの言葉で、これまで発表する子どもの方を向いていた他の子供達の目線が一度の教師の方に向いてしまいました。」と言われました。
先生がしゃべりすぎるので子ども達がお互いに発言を仕合ながら学び合っていくという授業が出来なくなったということをお話なのです。


恥ずかしながら、私にはそこまでは見えなかっただろうなと思います。


子どもの発言や、教師の発問の仕方、教材の提示の仕方などはしっかり見るでしょうが、その一瞬の子ども達の視線を捕らえて授業の判断をするという視点まではその時点では持ち得なかったのではないかなと思います。


いや、持ち合わせていたかもしれません。その時そこにいれば、もしかしたらそういう視点が出てきたかも容れません。

上のは例えであって、ここでいいたいのは、個々の視点が云々ではなく、授業の視点というものは、沢山の授業をしたり、見たりすることによってどんどん増えていくのだろうということです。 ただぼおっと見ていたのでは決して身につかない教師の技能です。


視点が多ければ多いほど自分の授業改善の糧になります。


見た授業について、協議会の中で他の先生達の視点をどんどんメモして自分のものにして行き、「自分の授業の力量を高めるために視点を増やすのだ」という意識を持ってそれをまとめ、次の授業参観に役立てていくのがいいですね。


授業の技量をどんどん高めるためにお互いに努力を続けましょう。

追記 2014/11/12

授業を見る視点をいくつもっているか | 教師の知的生活ネットワーク
ここから移動してきました。


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担任の先生が出張にいくときなど、自習中のクラスに行って勉強を見ることがある。

そのとき、せっかくそのクラスに来たのだからということで10分くらいもらってお話をしてあげることがある。

そんな時は決まって「怖い話して~!」と言われる。

 

「だ~め。君たち、怖い話聞くとおねしょするから。」というと

「しない~!!」

「寝る前、トイレいくもん!」

という返事がこれも決まって返ってくる。

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そこで、してあげるのが「怖いけどじーんとくる話」とか「怖いけどおかしい話」など。

この前は2年生に、毎晩自分の子供の為にあめを買いに来る女の幽霊の話をしてあげた。

幼い赤子を残して死んでしまったお母さんが、残した赤子のために毎日あめやさんにあめを買いに来てはなめさせてあげてた、というお話。

途中は「わ~!こわい~!」という顔をして聞いている子どもたちが

最後にはなんともいえないじーんとした顔をしながら聞いているのを見るのが好きで、よくしてあげる。

 

この学校の7不思議などもよくでっちあげて話してあげる。

「わあああ!!!」

とびっくりするが、これも最後には

「な~んだ!」とおもしろいオチをつけてあげる。

こわがらしたまま帰るとときどきトラウマになる子どもがいるので、

「先生、その話、本当ですか・・・?」と聞いてくる子には

「うそだよ~~~ん!!」

といって安心させてから帰すのも大事なこと。

 
追記 2014/11/11
この記事は、「教師の知的生活ネットワーク」から移動してきたものです。
 

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