Lyustyleの教育ちゃんねる

tomodachi




以前、同窓会をした時のこと。すでに40を越えた卒業生の方が、私に言ってくれた言葉です。

私が教師になって最初の教え子さんでした。

当時、教師になったばかりでろくな授業も出来なかった私は、せめて学級通信を一生懸命に書いて保護者とつながろうとおもっていたのでした。

「そんな暇があるなら教材研究しろよ」と今の私ならツッコミをいれたくなりますが、それでも、学級通信という日本の教育界における大切な文化である(と私が信じている)ことについて一生懸命考えて取り組んだことはそれなりに価値のあることであったとも思います。



その学級通信を、わたしはひたすら自分の手描きのカットにこだわって描いていました。カット集から切って貼る(まだコピーは高価で学校では十分に使わせてもらえる時代ではありませんでした)のが一般的な時代、なんだか味気なく思えて必死に手描きをしていたものです。



それはたんなる私のこだわりで、出来上がりはカット集の切り貼りの方がはるかにきれいなわけです。

ところがまさかのタイトルの言葉。

「学級通信の絵を自分で描いてるのか〜」と驚いていたということです。



意外でした。

子どもというのは、そんな風に私達が作ったものを丁寧にみてくれているんですね。

確かに、当時、なにがおもしろいのかわからないけど、学級通信をだしてだして!といってくれていた子どもがいた事を思い出します。

ご家族向けに書いているのに、この子はどうしてこんなに私の通信を読みたがっているんだろう、と当時は不思議に思ってましたが、きっとまだ若いお兄さんのような教師であった私がつくるものにはみんな興味をもってくれていたんだな、と今になってありがたい気持ちでいっぱいになってます。

追記 2014/11/10


教師の知的生活ネットワークより移転してきました。

  「先生は、学級通信の挿絵を手描きで描いてくれましたね」 | 教師の知的生活ネットワーク
ここから移転してきました。

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jugyou

新任の先生の授業の指導をする。

本時のめあてが何なのか、そのための活動と内容は、そして教師の指導上の留意点は・・・。

その辺の意味をまだよくわからずに作っている指導案だ。

ひとつひとつ大事に指導してあげなければならない。

指導案は形式的ではあるが、形式の意味をよく理解して書くことによって、教師は授業を自分によく分かる形で設計できる。

人に見てもらうように書くことで、自分にもよくわかるようになる。

定められた形式で人が読んでよくわかる形で指導顔をかけるということが、自分がその授業をよく研究し、理解し、設計をすることができたということだ。


また、新任の先生は「よい授業」についてのイメージがまだ少ない。

どのような授業が良い授業なのか、また自分の中にそのモデルがないのでどんな授業を組み立てたらいいのかがわからないのだ。

今の段階において持っている授業のモデルは、自分が子どもの時に受けた授業なのである。

先生がずっと喋り続ける授業や答え当ての授業、一問一答形式の授業などばかり受けてきた人はそんな授業のモデルしか知らないのだから自分もそのようにするしかない。

しかし先輩の先生の授業を参観したり、授業書を求めて読んだりすることの繰り返しを積み重ねていくことで、このような授業をつくりたいというモデルがいくつも自分の中にできるようになる。

そこからが教師修行のためにの第2のスタートといってもいいだろう。

そのためには、先輩の授業を見に行かせてもらっ
たり、若い先生たち同士でお互いの授業を見せ合ったり、と言った風通しの良い中でのOJTが必要になってくる。

たくさん授業を見ることだ。そしてよいと思ったことをどんどん取り入れて自分の一部に組み込んでいくことだ。

そしてそこから、自分の授業観を作っていく。

子どものための優れた授業ができる教師になるには、若い頃いかに多くの優れた授業をみるかということにかかっているとも言える。

自分の授業を見てもらいそして厳しく批評をもらうということはとても大切なことだが、まず良いモデルをたくさん持っておくことが先だという気がする。

追記 2014/11/9


これは、2012年6月に「教師の知的生活ネットワーク」に書いた記事を移動してきたものです。
 
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以前、下のような記事を書きました。

まさか、お家の方向けに書いている学級通信を、そんな視点で見てくれているなんて思いもしなかったので、とても驚いた、という記事です。

「先生は、学級通信の挿絵を手描きで描いてくれましたね」 | 教師の知的生活ネットワーク

このエントリーのもとになった小さな同窓会が昨日ありました。

昨年のことがありましたので、今回は当時の学級通信をもっていって見せてあげました。 すると、それを言った方が、今度はまた「へえ!!」と思うようなことを言ってくれたのです。

  「先生が書く記事の見出しのフォントに興味がありました」 これまたびっくりです。

今だから「フォント」と言ってますが、手書きですからフォントも何もありません。 私が勝手にデザインした見出し文字です。 白抜きにしたり、網掛けをしたりしながら、少しでもレイアウトが楽しくなるようにと思って書いてました。 ひとつひとつ違ったデザインになるように、いろんなデザインブックを見て研究していたものです。

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みんなそうやっているのだと思ってましたが、その方は、「いや、こんな紙面は先生が初めてでし
た」と言われていました。

  今はどうなでしょう。 当時は「学級通信」という文化があり、参考書もたくさん発行されていました。 そして、それらを見ながらワクワクしながら紙面をデザインし、発行していたものでした。

今ならさしずめブログを書くような気持ちだったと思います。

  近頃は、ワープロとデジカメ、挿絵カットCDなどで手軽に通信ができてしまいます。 効率的に、訴える力のある通信ができるので、できた時間を教材研究に回せます。

  でも、時々は、手書きにしてみるのもいいんじゃないかなと思います。

文章だけはワープロで打っても、挿絵だけは手描きというのもなかなか味があるものですよ。
 
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登校してきたとき、遊びから帰ってきた時、くつをそろえてくつばこに入れさせる指導をします。

その時、奥にそろえるのではなく、手前のへりにかかとをそろえるように指導するといいですよ。

それは、奥にそろえるときに比べて、いったん動作をとめることができるからです。


奥にいれていると、たたっと走りながらでもうまいこはそろえて入れられます。やぶさめの矢のように、かけぬけながらうわぐつを取り出し、運動靴をすすっと奥に突っ込むことができるのです。
たいていの子そもはそんなにうまくありませんから、奥に跳ね返ってくつがおどり、右の靴の上に左の靴がのっかってしまったままそれに気づかず行ってしまうというようなことが起こります。
気持ちの切り替えもできないままです。

しかし、手前のへりにそろえて入れるには、どうしてもいったんそこで立ち止まらざるを得ません。くつを入れた後、手前に引き戻してそっとへりに合わせるという動作がいるからです。

その結果、流れるように走ってきた子どもたちがいったんそこで止まり、そのあとは歩いて教室へ向かうという流れができます。

気持ちの切り替えだけでなく、安全面からもよいです。
せまい昇降口にわっと何人もの子どもが集まると押したりつまずいたりでけがをする子どももでます。
その点、手前のへりにそろえることで走り抜ける子どもが減るのでけがの防止にも役に立つんです。

ボールあそび
それに、見た目もとてもきれいですよ。
 
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今日もevernoteから。
ちょうど1年ほどまえにTwitter経由でevernoteに放り込んでおいたメモに次のようなのがありました。

10/02/16 18:51

これまで培ってきた経験だけで教えてはいけない。 大事なことは教える側も現在進行形でまなびつづけなければならないし、それも教わる側の何倍もの速度で学び続けていくべきである
「若い教師を育てる」 成田幸夫

この題名の本を読んだ覚えは無いので、講演なで紹介された本の内容でしょう。

evernoteを使う時は、コンテキスト(場所、時間などの属性)や出典などを明らかにしておかなければならないな、と反省。

さて、「これまで培ってきた経験だけで教えてはならない」というのは重いことばだなあと思います。 この世界には、昔からこうやっている、という安心感の上に立っていたいという誘惑が渦巻いています。

よく言われるのが毎年毎年同じノートで講義をし続ける大学の教授。
教え方だとか、教える内容などを高めて行くエネルギーが消え失せてしまって、学生相手にごまかしながら講義をこなしている姿。(あくまでも物語などの設定の話ですよ)

これと同じことに、教師は陥りやすいと思います。

昔、このやり方で子供がすごくやる気が出て学習の効果もあったので、私はずっとこのやり方で行こう、と決めてしまいがちになります。

ところが時代とともに子どもも、子どもを取り巻く環境も変わり実態は大きく変わってしまったのに、その事に気づかず、もしくは目を瞑り、昔と同じ考えで同じやり方でし続ける。

ある日子どもたちが弾けて崩壊して行く、というその様な状況を、私たちはどれだけ見てきたことでしょうか。

常に学び続けていかないとダメだということは教師ならみんな知っています。
しかしそれを実行するのは難しい。
だから、日々勉強し続ける為の意識と技が必要になってきます。

そのような意識や技の持ちようもひっくるめて、教師の能力は省みられることが必要だと思います。

このブログにもその様な技をずっと書き続けている訳ですが、どんな技がどこに書いてあるのか近頃分かりづらくなってきましたので、そろそろカテゴリの整理や、インデックスとなる静的なページなどを作って行こうと思っています。

 

追記 2014/11/4

この記事は「教師の知的生活ネットワーク」より移転してきたものです。

 
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放課後、学校を巡回していた時、ある教室の外の窓があいていたので、合鍵で入り口をあけ、教室の中に入り、外の窓をしめて帰ろうとしたときに、今日のタイトルの思いが頭を占領してしまいました。
「学校の教室って、収納について考えられていない・・・」

そもそも、子どもは学校にありとあらゆるものを持ち込みます。
ランドセル、教科書、お道具袋、水筒、上靴、体操服、水筒、給食袋、借りた本・・・場合によっては、絵の具、習字道具、笛、辞書、その他もろもろ・・・

  これだけのものを持ち込むのに、実はこれらを収納するスペースが絶望的にすくないのです。

ランドセル入れは後ろの棚になってます。中の教科書などを机にしまえば中はあくので、そこに帽子をいれたり、体操服をいれたりなどのささやかな工夫をしますが、まったく追いつきません。

帽子は休み時間のたびにかぶりますので、いちいちランドセルに閉まったり出したりもどかしい・・・。そうして、ランドセルの上に押しこむ形になります。
結果、うまく押し込まれずに床にポトポトおちまくる、というようなことになることがあります。

廊下には、ひとりひとりにフックが用意されてます。ここに体操服袋をかけてしまえば、あとは机の横のフックくらいしか子どものものを収納する場所はありません。

机の横に習字道具や絵の具をかけたら、もこもこせりだして机の机の間をあるけなくなりますし、なにより掃除の時間に運ぶのが重い。だから、背面黒板の棚や、教壇にならべておいたりします。

水筒は、後ろの棚の上にならべますが、工作の途中の作品などと混じり合い、雑然としてしまいます。

こまるのは上靴袋。月曜日に持ってきたら、金曜日にうわぐつをあらうために持って帰るまでまったくつかいません。 それでもどこかにおいておかなければなりません。だから、先生によっては月曜日の朝、大きなダンボールの箱に全員分の上靴袋を入れて後ろの掃除道具を入れる箱の上においておきます。
どうせ1週間つかわないのだから、そういう高いところにおいても困らないのです。

教室にはできるだけものをおかないほうがいい、といっていろいろな工夫を先生はしますが、しかしこんな状態なので子どものもので溢れかえらざるを得ません。

しずかな、なにもない、シンプルな空間で勉強させてあげたいなと思います。そうしたらどれだけ子どもは集中できるでしょうか。

学力もあがるにちがいありません。

どうかどうか、学校をつくる方。新しい学校を作るときには、子どものための収納をしっかり考慮してください。おねがいします。

 kinoko2

追記 2014/11/1 

この記事は、「教師の知的生活ネットワーク」から移動してきました。
それにしても、本当に必要なものの割には、収納スペースが少ないです。
私立の学校は、結構たくさんの収納棚がありました。 
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資料とか、子ども用の文具とか、絵本とか、紙とか・・・。

教室においておいたら、子供たちにすぐに使わせたり見せたりすることができて便利だと思う気持ちから、教師は学級にさまざまなものを持ち込む傾向がある。

長く教師をやっていると、教室の中にものが豊かにある方がいいと思いがちだ。

教室の中がさまざまな子供たちの作品や学習のあと、資料などがところせましと整然と並べられ、豊富な教材、文具類がいたるところに用意されているのがよい教室であるかのように思ってしまうのだ。

「豊か」な感じがするのだ。 がらんとした教室より、にぎやかな教室の方が楽しいし・・。

私自身も、旅行に行った先でかならず現地のかざり、おもちゃなどを買い込み、教室に持ち込んで子どもたちに自由にさわらせてきた。

 教室の中いたるところに観葉植物をおき、ジャングルのようにしてしまったこともある。

しかし、実は教室にはモノが少ないほどいいと言われている。 特別支援教育の視点からだ。

 特別支援教育についての研究がすすみ、クラスの1割は発達障害があってもおかしくないとわれているなかで、教室にモノが多ければ多いほど子どもは学習に集中することができない。

何かが気になったり、こだわったりする傾向が強い子どもは、それだけで学習に集中することができなくなるのだ。

だから、なるべく教室からなくてもよいものはなくしていく必要がある。

ところが・・・・!! それができない教師がいる。

 へらそうとしてもへらそうとしても、どんどん物が増えていき、倉庫化してしまうのだ。

教室で次々に生み出されるプロダクト。 すなわち、工作、絵、プリント、自由研究でつくってきたもの・・・。 それらはなかなかうまく処理するのが難しい。

子どもがせっかく持ち込んできたのに、すぐに返してしまうのもなんだか悪いのでできるだけ長く掲示したり展示したりしてあげたい。

  また、採点などの評価が追いつかず、プリント類を返したくても返せない状態が続いてしまうこともある。

 そんなこんなで徐々に教室にものがあふれていく。

そこで、表題の「断捨離」を実行しなさい、ということになる。

実際にどのようにしたらいいいのか、ということについて改めて書いてみるつもりだが、「教室の断捨離」という意識を持って、教室のものをへらし、床や壁の可視面積を増やしていく意識が必要になってきている。

新・片づけ術「断捨離」

見てわかる、「断捨離」 (マガジンハウスムック)

不思議なくらい心がスーッとする断捨離 (王様文庫)  
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Evernoteを使い始めて1年以上たつわけですが、ノートも1000数百になるとそろそろ蓄積されたものからあたらしい価値がうまれてきそうです。

ところで、このEvernoteは、研究に適しています。

資料や記録を集め、それにタグをつけ、縦横に検索しながら新たな価値をつくりだしていくことができる力を持っています。

教師は教材研究をせねばなりませんが、これにEvernoteを使うととても効率のよい、深い研究ができそうです。

私がEvernoteを使い始めた昨年は、すでに担任をはなれて教務主任をしていたため、授業研究に効果的にEvernoteを使うという使い方はしていませんでしたが、もし担任だったらEvernoteを教材研究にこのように使いたかったな、ということをまとめてみました。 ・

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1教材研究ノートブックをつくる

「教材研究」というノートブックを作り、そこに参考書などから抜き書きノートや先行授業や関連サイトのクリップ、指導書や指導要領のクリップ、資料の写真などありとあらゆる研究用の資料を放り込む。  

2 タグによる管理

どの単元や題材に関する資料なのかはタグで管理する。

研究する度に一つのノートを作っていてはノート数が膨大に膨れ上がってしまうからだ。

また、一つの資料が複数の研究で共有される場合、研究ごとにノート分けしていたのでは同じ資料を複数のノートに入れなければならなくなる。

タグで管理しておけば、研究が増えてもその資料につけられるタグが増えていくだけだ。

例えば、算数の指導要領に「かけ算」「わり算」などのタグが増えていく。タグはいくつでもつけられるから、タグでの管理の方が便利だ。

3 授業記録

写真や協議会記録、学習の記録なども保存しておく。

しかし、何でもというわけにはいかない。児童の顔が写っているものや、個人が特定できるノートの写真などは残念ながら入れてはいけない。

同期をしない設定にして、ローカルのみ保存というようにすればいいようであるが、そういうわけではないので気をつける必要がある。
本来学校から持ち出してはいけないデータである場合がある。

このように写真や情報の一部に注意して、蓄積していけば、いつでもその授業に使った資料や記録にアクセスできる。次に同じ学年を担任したときに大きな力を発揮するだろう。   私は、自分の過去の実践記録をこのようにしてEvernoteに取り込んでいく作業をはじめるところです。  

追記 2014年2月28日

4年ほど前に書いた記事です。 当時はまだ1000ほどのノートだったようですが、今では13000件にもなりました。  

さらに追記 2014年10月29日 

教師の知的生活ネットワークより移動してきました。
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図画工作科の若手の先生たちの指導を頼まれたので行ってきた。

指導のしどころはたくさんあったが、研究が若い人たちに脈々と続いているのがとても嬉しく、また、頼もしく思った会だった。

以前 指導主事をされていた教頭先生が細かく深く指導をされていたが、その中で2点が心に残った。

 ちゃんと自分たちで書いたり作ったりしてみたか?

一つ目は、グルーブ研究として2学期に検証するための授業の題材について、ちゃんと自分たちで描いたり作ったりしてみたのか、という指摘。

それをここに出して私たちに見せながら発表しないと、子どもたちにどんな学習させたいのかがこちらに伝わってこないし、そもそも、自分たち自身、なにをしたいのかがまだ定まっていないのではないか。

そういうことだった。

まず自分でつくってみる、描いてみるというのは題材の解釈をすることであるし、子どもの活動の予想をすることだ。

これをやらないと、図工の教材研究としては話にならない ところが実際には、日々の授業やテストの採点などに追われてなかなかできることではないが、それでも図画工作科の研究というのはそういうことをきちんとやることだ、ということをきっちりと指導してくださっていた。  

教科書を穴のあくほど読む

もう一点は、教科書を穴の開くほど読んだがということだ。

いろんなところで言われていることだが、教科書は最良の資料だ。
「教科書を教えるのではない。教科書で教えるのだ」という、教師ならだれでも習う名言があるが、これを「教科書を重要視するなということ」だと誤解する向きがどの教科でも見られる。

特に図画工作科ではそれが顕著だ。

教科書を元に作った年間計画とは関係なく、何かの雑誌やネットから拾ってきた見栄えの良い絵ができる題材を投げ入れることなどが行われやすい図画工作科では、なかなか教科書が使われない。

  しかし、教科書の作品やキャプションは実は宝の山で、じっと作品をみているだけで解釈や指導の方法についてのヒントがいくらでも出てくる。

また、教科書をみて子どもに話し合わせることで、発想を広げたり、材料集めのヒントが生まれたり、表現方法を思いついたり、など活動を広げ取り深めたりすることができるのだ。

もう一度、指導しようとする題材について、教科書をみながらわかったことを書き出してみなさい、と指導してくださっていた。

  以上二つ。   いつまでも図画工作科の実践家であり続けたいと願う私にとって、実践家としての心構えを再確認させてもらった、ありがたい会だった。  

追記2014年3月31日

これは2011年に書いて下描き保存したままになっていたものを整理していて発掘したものです。手を加えて公開しました。

さらに追記2014年10月28日

「教師の知的生活ネットワーク」に書かれた記事をこちらに移動してきました。

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よく、子どもに「何か困ったことがあったら言うんだよ」と言ってきました。

言うんだよと言っているから、何か困ったことがあったら言ってくるに違いないと私は思います。

でも、子どもはなかなか言ってきません。

言ってこないということは、何も困ったことがないんだ、よかったよかった、と若い私は安心していました。


しかし、言ってこれなかったんです。
困ったことがあったのに、言ってこれなかったんです。
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理由は大きく分けて3つあります。

一つ目は、

「自分が困っているということがわからない。」

困り感に慣れてしまっている子は、困っているということ自体に気づかないことがある。
おなかがすいてたまらないけど、それがいつもだったら、おなかがすいていることが困ったことなんだということがわからないんです。

家できつく叱られる。 でも、それが普通だったら、それが困ったことだということがわからない。

そういうことです。

 自分が困っていることが自分でわからない。
無邪気な顔を見ていると、本当に申し訳ない気持ちでいっぱいになります。


二つ目は、

こんなのは困っているうちに入らないと自己規制する

自分の困り感はよくわかる。
友達からなにかいわれた。
いやなことされた。

困る。

でも、これくらいのことで先生に言っていったら、ちょっと恥ずかしいし、プライドにかかわる。
また、先生にめいわくかけるかもしれない。

僕の困っていることより、もっと困っている人はいっぱいいるはずだ。
こんなの、困っているうちに入らないや・・・。

そう思って自己規制するんです。

先生や親に心配をかけたくない、という気持ちもここに入りますね。

「そうか・・・ずっとそうやってがまんしてきたのか・・・」
これもずいぶん申し訳ない思いをしました。


三つ目は

「いいたくてもいえないや・・・」

これです。
おそらく一番多いんじゃないかなと思います。

何かいいたかったけど、先生に言っていける雰囲気じゃなかった・・・


なんだか忙しそうで、しばらく聞いてもらえそうにない。

なんだか難しい顔でしかめっつらしながら、なにか作業してる。とても聞いてもらえそうな雰囲気じゃない。

「ちょっとまって・・・あとからね」と、言われたが、その「あとから」が来そうにない・・・。


そんな雰囲気を先生がふりまいているから、何か言いたくてもいえない・・。

これも、本当にごめんなさいという気持ちでいっぱいです。


私は、長いこと「子どもがなにもいってこないから困ってないんだ」と思ってました。
成長して大きくなった教え子さんたちから思い出話としてこういうことを話してもらい、初めてわかりました。

「困ったことがあったら言ってね」の後に、

「今、困っているみたいだね」という促しのことばとフォローが必要だったということを。


私の数ある失敗のひとつでした。

 
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