Lyustyleの教育ちゃんねる

人の話を最後まで聞く
これをするだけで、相手がこちらを信頼して安心して話をしてくれるのに、

途中で話をさしはさんだり、

「なんだ、そんな馬鹿なことしたのか」と評価したり

「そりゃ、お前が悪いだろ」と助言したり

「あ!なるほど!こうなるわけだ!」と予測して、おいしいところをもっていったり

 

そんなことをついしてしまうもんだから、相手は

「もういいや」「どうせきいてくれんし」

「途中で切らないで最後まではなさせて」

となって、心を閉ざしてしまう。

昔は、叱っている子どもが途中でだまりこくってしまうことがよくあった。

その気持ちがわからず、

「ちゃんと返事をしないか」

「どうしてこうしたのかきちんと言葉ではなさないか」など、

ずいぶん腹をたてて怒ったものだ。

 

当たり前だ。

話をしている途中で

「それで!!」と威圧的に先をうながしたり

「な~に~!!?」と怒りをあらわにしたり

 

それじゃ、何も言えなくなってしまって当たり前だ。

 

まず、聞く。

話し終わるまで、じっくりと聞く。

「はやく話終われ!」と願ったらだめだ。

顔や動作に出る。

はらをくくって、心を沈めて、とにかくまるごとその子をうけとめるつもりできく。

子どもが悩みや困りごとを話してくれるようになるにはそれしかない。

ちかごろすごくそう思う。
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追記2014/ 11/13

この記事はこちらから移転してきました。

人の話を最後まで聞く | 教師の知的生活ネットワーク
こちらから移転してきました。

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先日、文科省の方の話を聞く機会がありました。
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新しい指導要領が求めている学力を身につけさせる授業とはどんな授業なのかを多くのビデオクリップをもとにわかりやすく示していただきました。
 

内容についてはちょっと首を傾げざるを得ないところがありましたが、さすがに授業を何百本もご覧になっているだけあって、授業参観の視点は沢山お持ちだなと思いました。


たとえば、「先生のこの言葉で、これまで発表する子どもの方を向いていた他の子供達の目線が一度の教師の方に向いてしまいました。」と言われました。
先生がしゃべりすぎるので子ども達がお互いに発言を仕合ながら学び合っていくという授業が出来なくなったということをお話なのです。


恥ずかしながら、私にはそこまでは見えなかっただろうなと思います。


子どもの発言や、教師の発問の仕方、教材の提示の仕方などはしっかり見るでしょうが、その一瞬の子ども達の視線を捕らえて授業の判断をするという視点まではその時点では持ち得なかったのではないかなと思います。


いや、持ち合わせていたかもしれません。その時そこにいれば、もしかしたらそういう視点が出てきたかも容れません。

上のは例えであって、ここでいいたいのは、個々の視点が云々ではなく、授業の視点というものは、沢山の授業をしたり、見たりすることによってどんどん増えていくのだろうということです。 ただぼおっと見ていたのでは決して身につかない教師の技能です。


視点が多ければ多いほど自分の授業改善の糧になります。


見た授業について、協議会の中で他の先生達の視点をどんどんメモして自分のものにして行き、「自分の授業の力量を高めるために視点を増やすのだ」という意識を持ってそれをまとめ、次の授業参観に役立てていくのがいいですね。


授業の技量をどんどん高めるためにお互いに努力を続けましょう。

追記 2014/11/12

授業を見る視点をいくつもっているか | 教師の知的生活ネットワーク
ここから移動してきました。


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担任の先生が出張にいくときなど、自習中のクラスに行って勉強を見ることがある。

そのとき、せっかくそのクラスに来たのだからということで10分くらいもらってお話をしてあげることがある。

そんな時は決まって「怖い話して~!」と言われる。

 

「だ~め。君たち、怖い話聞くとおねしょするから。」というと

「しない~!!」

「寝る前、トイレいくもん!」

という返事がこれも決まって返ってくる。

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そこで、してあげるのが「怖いけどじーんとくる話」とか「怖いけどおかしい話」など。

この前は2年生に、毎晩自分の子供の為にあめを買いに来る女の幽霊の話をしてあげた。

幼い赤子を残して死んでしまったお母さんが、残した赤子のために毎日あめやさんにあめを買いに来てはなめさせてあげてた、というお話。

途中は「わ~!こわい~!」という顔をして聞いている子どもたちが

最後にはなんともいえないじーんとした顔をしながら聞いているのを見るのが好きで、よくしてあげる。

 

この学校の7不思議などもよくでっちあげて話してあげる。

「わあああ!!!」

とびっくりするが、これも最後には

「な~んだ!」とおもしろいオチをつけてあげる。

こわがらしたまま帰るとときどきトラウマになる子どもがいるので、

「先生、その話、本当ですか・・・?」と聞いてくる子には

「うそだよ~~~ん!!」

といって安心させてから帰すのも大事なこと。

 
追記 2014/11/11
この記事は、「教師の知的生活ネットワーク」から移動してきたものです。
 

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tomodachi




以前、同窓会をした時のこと。すでに40を越えた卒業生の方が、私に言ってくれた言葉です。

私が教師になって最初の教え子さんでした。

当時、教師になったばかりでろくな授業も出来なかった私は、せめて学級通信を一生懸命に書いて保護者とつながろうとおもっていたのでした。

「そんな暇があるなら教材研究しろよ」と今の私ならツッコミをいれたくなりますが、それでも、学級通信という日本の教育界における大切な文化である(と私が信じている)ことについて一生懸命考えて取り組んだことはそれなりに価値のあることであったとも思います。



その学級通信を、わたしはひたすら自分の手描きのカットにこだわって描いていました。カット集から切って貼る(まだコピーは高価で学校では十分に使わせてもらえる時代ではありませんでした)のが一般的な時代、なんだか味気なく思えて必死に手描きをしていたものです。



それはたんなる私のこだわりで、出来上がりはカット集の切り貼りの方がはるかにきれいなわけです。

ところがまさかのタイトルの言葉。

「学級通信の絵を自分で描いてるのか〜」と驚いていたということです。



意外でした。

子どもというのは、そんな風に私達が作ったものを丁寧にみてくれているんですね。

確かに、当時、なにがおもしろいのかわからないけど、学級通信をだしてだして!といってくれていた子どもがいた事を思い出します。

ご家族向けに書いているのに、この子はどうしてこんなに私の通信を読みたがっているんだろう、と当時は不思議に思ってましたが、きっとまだ若いお兄さんのような教師であった私がつくるものにはみんな興味をもってくれていたんだな、と今になってありがたい気持ちでいっぱいになってます。

追記 2014/11/10


教師の知的生活ネットワークより移転してきました。

  「先生は、学級通信の挿絵を手描きで描いてくれましたね」 | 教師の知的生活ネットワーク
ここから移転してきました。

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jugyou

新任の先生の授業の指導をする。

本時のめあてが何なのか、そのための活動と内容は、そして教師の指導上の留意点は・・・。

その辺の意味をまだよくわからずに作っている指導案だ。

ひとつひとつ大事に指導してあげなければならない。

指導案は形式的ではあるが、形式の意味をよく理解して書くことによって、教師は授業を自分によく分かる形で設計できる。

人に見てもらうように書くことで、自分にもよくわかるようになる。

定められた形式で人が読んでよくわかる形で指導顔をかけるということが、自分がその授業をよく研究し、理解し、設計をすることができたということだ。


また、新任の先生は「よい授業」についてのイメージがまだ少ない。

どのような授業が良い授業なのか、また自分の中にそのモデルがないのでどんな授業を組み立てたらいいのかがわからないのだ。

今の段階において持っている授業のモデルは、自分が子どもの時に受けた授業なのである。

先生がずっと喋り続ける授業や答え当ての授業、一問一答形式の授業などばかり受けてきた人はそんな授業のモデルしか知らないのだから自分もそのようにするしかない。

しかし先輩の先生の授業を参観したり、授業書を求めて読んだりすることの繰り返しを積み重ねていくことで、このような授業をつくりたいというモデルがいくつも自分の中にできるようになる。

そこからが教師修行のためにの第2のスタートといってもいいだろう。

そのためには、先輩の授業を見に行かせてもらっ
たり、若い先生たち同士でお互いの授業を見せ合ったり、と言った風通しの良い中でのOJTが必要になってくる。

たくさん授業を見ることだ。そしてよいと思ったことをどんどん取り入れて自分の一部に組み込んでいくことだ。

そしてそこから、自分の授業観を作っていく。

子どものための優れた授業ができる教師になるには、若い頃いかに多くの優れた授業をみるかということにかかっているとも言える。

自分の授業を見てもらいそして厳しく批評をもらうということはとても大切なことだが、まず良いモデルをたくさん持っておくことが先だという気がする。

追記 2014/11/9


これは、2012年6月に「教師の知的生活ネットワーク」に書いた記事を移動してきたものです。
 
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以前、下のような記事を書きました。

まさか、お家の方向けに書いている学級通信を、そんな視点で見てくれているなんて思いもしなかったので、とても驚いた、という記事です。

「先生は、学級通信の挿絵を手描きで描いてくれましたね」 | 教師の知的生活ネットワーク

このエントリーのもとになった小さな同窓会が昨日ありました。

昨年のことがありましたので、今回は当時の学級通信をもっていって見せてあげました。 すると、それを言った方が、今度はまた「へえ!!」と思うようなことを言ってくれたのです。

  「先生が書く記事の見出しのフォントに興味がありました」 これまたびっくりです。

今だから「フォント」と言ってますが、手書きですからフォントも何もありません。 私が勝手にデザインした見出し文字です。 白抜きにしたり、網掛けをしたりしながら、少しでもレイアウトが楽しくなるようにと思って書いてました。 ひとつひとつ違ったデザインになるように、いろんなデザインブックを見て研究していたものです。

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みんなそうやっているのだと思ってましたが、その方は、「いや、こんな紙面は先生が初めてでし
た」と言われていました。

  今はどうなでしょう。 当時は「学級通信」という文化があり、参考書もたくさん発行されていました。 そして、それらを見ながらワクワクしながら紙面をデザインし、発行していたものでした。

今ならさしずめブログを書くような気持ちだったと思います。

  近頃は、ワープロとデジカメ、挿絵カットCDなどで手軽に通信ができてしまいます。 効率的に、訴える力のある通信ができるので、できた時間を教材研究に回せます。

  でも、時々は、手書きにしてみるのもいいんじゃないかなと思います。

文章だけはワープロで打っても、挿絵だけは手描きというのもなかなか味があるものですよ。
 
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登校してきたとき、遊びから帰ってきた時、くつをそろえてくつばこに入れさせる指導をします。

その時、奥にそろえるのではなく、手前のへりにかかとをそろえるように指導するといいですよ。

それは、奥にそろえるときに比べて、いったん動作をとめることができるからです。


奥にいれていると、たたっと走りながらでもうまいこはそろえて入れられます。やぶさめの矢のように、かけぬけながらうわぐつを取り出し、運動靴をすすっと奥に突っ込むことができるのです。
たいていの子そもはそんなにうまくありませんから、奥に跳ね返ってくつがおどり、右の靴の上に左の靴がのっかってしまったままそれに気づかず行ってしまうというようなことが起こります。
気持ちの切り替えもできないままです。

しかし、手前のへりにそろえて入れるには、どうしてもいったんそこで立ち止まらざるを得ません。くつを入れた後、手前に引き戻してそっとへりに合わせるという動作がいるからです。

その結果、流れるように走ってきた子どもたちがいったんそこで止まり、そのあとは歩いて教室へ向かうという流れができます。

気持ちの切り替えだけでなく、安全面からもよいです。
せまい昇降口にわっと何人もの子どもが集まると押したりつまずいたりでけがをする子どももでます。
その点、手前のへりにそろえることで走り抜ける子どもが減るのでけがの防止にも役に立つんです。

ボールあそび
それに、見た目もとてもきれいですよ。
 
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今日もevernoteから。
ちょうど1年ほどまえにTwitter経由でevernoteに放り込んでおいたメモに次のようなのがありました。

10/02/16 18:51

これまで培ってきた経験だけで教えてはいけない。 大事なことは教える側も現在進行形でまなびつづけなければならないし、それも教わる側の何倍もの速度で学び続けていくべきである
「若い教師を育てる」 成田幸夫

この題名の本を読んだ覚えは無いので、講演なで紹介された本の内容でしょう。

evernoteを使う時は、コンテキスト(場所、時間などの属性)や出典などを明らかにしておかなければならないな、と反省。

さて、「これまで培ってきた経験だけで教えてはならない」というのは重いことばだなあと思います。 この世界には、昔からこうやっている、という安心感の上に立っていたいという誘惑が渦巻いています。

よく言われるのが毎年毎年同じノートで講義をし続ける大学の教授。
教え方だとか、教える内容などを高めて行くエネルギーが消え失せてしまって、学生相手にごまかしながら講義をこなしている姿。(あくまでも物語などの設定の話ですよ)

これと同じことに、教師は陥りやすいと思います。

昔、このやり方で子供がすごくやる気が出て学習の効果もあったので、私はずっとこのやり方で行こう、と決めてしまいがちになります。

ところが時代とともに子どもも、子どもを取り巻く環境も変わり実態は大きく変わってしまったのに、その事に気づかず、もしくは目を瞑り、昔と同じ考えで同じやり方でし続ける。

ある日子どもたちが弾けて崩壊して行く、というその様な状況を、私たちはどれだけ見てきたことでしょうか。

常に学び続けていかないとダメだということは教師ならみんな知っています。
しかしそれを実行するのは難しい。
だから、日々勉強し続ける為の意識と技が必要になってきます。

そのような意識や技の持ちようもひっくるめて、教師の能力は省みられることが必要だと思います。

このブログにもその様な技をずっと書き続けている訳ですが、どんな技がどこに書いてあるのか近頃分かりづらくなってきましたので、そろそろカテゴリの整理や、インデックスとなる静的なページなどを作って行こうと思っています。

 

追記 2014/11/4

この記事は「教師の知的生活ネットワーク」より移転してきたものです。

 
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放課後、学校を巡回していた時、ある教室の外の窓があいていたので、合鍵で入り口をあけ、教室の中に入り、外の窓をしめて帰ろうとしたときに、今日のタイトルの思いが頭を占領してしまいました。
「学校の教室って、収納について考えられていない・・・」

そもそも、子どもは学校にありとあらゆるものを持ち込みます。
ランドセル、教科書、お道具袋、水筒、上靴、体操服、水筒、給食袋、借りた本・・・場合によっては、絵の具、習字道具、笛、辞書、その他もろもろ・・・

  これだけのものを持ち込むのに、実はこれらを収納するスペースが絶望的にすくないのです。

ランドセル入れは後ろの棚になってます。中の教科書などを机にしまえば中はあくので、そこに帽子をいれたり、体操服をいれたりなどのささやかな工夫をしますが、まったく追いつきません。

帽子は休み時間のたびにかぶりますので、いちいちランドセルに閉まったり出したりもどかしい・・・。そうして、ランドセルの上に押しこむ形になります。
結果、うまく押し込まれずに床にポトポトおちまくる、というようなことになることがあります。

廊下には、ひとりひとりにフックが用意されてます。ここに体操服袋をかけてしまえば、あとは机の横のフックくらいしか子どものものを収納する場所はありません。

机の横に習字道具や絵の具をかけたら、もこもこせりだして机の机の間をあるけなくなりますし、なにより掃除の時間に運ぶのが重い。だから、背面黒板の棚や、教壇にならべておいたりします。

水筒は、後ろの棚の上にならべますが、工作の途中の作品などと混じり合い、雑然としてしまいます。

こまるのは上靴袋。月曜日に持ってきたら、金曜日にうわぐつをあらうために持って帰るまでまったくつかいません。 それでもどこかにおいておかなければなりません。だから、先生によっては月曜日の朝、大きなダンボールの箱に全員分の上靴袋を入れて後ろの掃除道具を入れる箱の上においておきます。
どうせ1週間つかわないのだから、そういう高いところにおいても困らないのです。

教室にはできるだけものをおかないほうがいい、といっていろいろな工夫を先生はしますが、しかしこんな状態なので子どものもので溢れかえらざるを得ません。

しずかな、なにもない、シンプルな空間で勉強させてあげたいなと思います。そうしたらどれだけ子どもは集中できるでしょうか。

学力もあがるにちがいありません。

どうかどうか、学校をつくる方。新しい学校を作るときには、子どものための収納をしっかり考慮してください。おねがいします。

 kinoko2

追記 2014/11/1 

この記事は、「教師の知的生活ネットワーク」から移動してきました。
それにしても、本当に必要なものの割には、収納スペースが少ないです。
私立の学校は、結構たくさんの収納棚がありました。 
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資料とか、子ども用の文具とか、絵本とか、紙とか・・・。

教室においておいたら、子供たちにすぐに使わせたり見せたりすることができて便利だと思う気持ちから、教師は学級にさまざまなものを持ち込む傾向がある。

長く教師をやっていると、教室の中にものが豊かにある方がいいと思いがちだ。

教室の中がさまざまな子供たちの作品や学習のあと、資料などがところせましと整然と並べられ、豊富な教材、文具類がいたるところに用意されているのがよい教室であるかのように思ってしまうのだ。

「豊か」な感じがするのだ。 がらんとした教室より、にぎやかな教室の方が楽しいし・・。

私自身も、旅行に行った先でかならず現地のかざり、おもちゃなどを買い込み、教室に持ち込んで子どもたちに自由にさわらせてきた。

 教室の中いたるところに観葉植物をおき、ジャングルのようにしてしまったこともある。

しかし、実は教室にはモノが少ないほどいいと言われている。 特別支援教育の視点からだ。

 特別支援教育についての研究がすすみ、クラスの1割は発達障害があってもおかしくないとわれているなかで、教室にモノが多ければ多いほど子どもは学習に集中することができない。

何かが気になったり、こだわったりする傾向が強い子どもは、それだけで学習に集中することができなくなるのだ。

だから、なるべく教室からなくてもよいものはなくしていく必要がある。

ところが・・・・!! それができない教師がいる。

 へらそうとしてもへらそうとしても、どんどん物が増えていき、倉庫化してしまうのだ。

教室で次々に生み出されるプロダクト。 すなわち、工作、絵、プリント、自由研究でつくってきたもの・・・。 それらはなかなかうまく処理するのが難しい。

子どもがせっかく持ち込んできたのに、すぐに返してしまうのもなんだか悪いのでできるだけ長く掲示したり展示したりしてあげたい。

  また、採点などの評価が追いつかず、プリント類を返したくても返せない状態が続いてしまうこともある。

 そんなこんなで徐々に教室にものがあふれていく。

そこで、表題の「断捨離」を実行しなさい、ということになる。

実際にどのようにしたらいいいのか、ということについて改めて書いてみるつもりだが、「教室の断捨離」という意識を持って、教室のものをへらし、床や壁の可視面積を増やしていく意識が必要になってきている。

新・片づけ術「断捨離」

見てわかる、「断捨離」 (マガジンハウスムック)

不思議なくらい心がスーッとする断捨離 (王様文庫)  
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