Lyustyleの教育ちゃんねる

教育雑誌からのメモを整理していました。
もう20数年も前のメモです。

そこに下のような記述がありました。

「アメリカ合衆国では、基礎学力を一斉授業でやりたくても無理なのである。


なぜなら、子どもたちの社会的背景が非常に異なっていて、日本に比べると、同じ学年の中の子どものたちの学力差が、ある研究者によれば、日本のそれの三倍はあるからである。


移民や難民の子ども、
典型的なインテリ中流階級の子ども、
単純労働で家庭環境も悪い低所得者層の子ども等々、
文化的等質性が非常に低く、一斉授業では確実に落ちこぼれを作ってしまうことになり、「個別学習」や「個別指導」をするしかないのである。

日本でも、外国人子弟や帰国子女の増加が進めば、そのうちにそうせざるを得なくなるかも知れない。


授業研究 1993-11 403 p11」


そして今,確かに日本でもそうなっています。


一斉授業が難しくなっているのは,同じことが日本の学級でも起こるようになっているからです。


「一斉授業から協働的な学びへの転換」という21世紀型の学校の様式の変化はこのような背景からも来ていると思います。


小1プロブレムなどは,実は矯正されなければならない問題なのではなく,対処すべき課題なのでしょう。


子どもが一斉授業を受け付けなくなってきているのです。

これからの時代は,何が何でも一斉授業,一斉授業ありきの授業ではなくなっていくことと思います。

はねる

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ここで一年生の学級通信を掲載し始めて20号を超えました。
予定では30号掲載することにしていますのであと10号ということになります。

ここに書かれた通信は25年も前のものであり、在外教育施設のものであるという点において、現代の学級経営には何の役にも立たないと思われそうです。

ところが、あえて私がこれをこのブログに持ち込んだのは、次の点で、現代の日本の教育者に立って価値があるのではないかと思ったからです。

1.初めてその学年を担任したものが、その学年の発達段階や学習内容を一生懸命に研究した跡を残していること

2.保護者を巻き込んで教育のネットワークを作り、一緒に成長しようとしていること。

3.授業や様々な教育活動の実験の記録としての学級通信という形があることを

通して読んでいただければ、現代の日本のどの学年を受け持つ教師にとってもお役に立てるものではないかと思っています。

そこで、これを書籍として出版することを考えました。
Kindleの電子書籍のセルフパブリッシングを使います。
そのためには、手書きで書いたものをテキスト化しなくてはなりません。

そこでその経過をブログで配信し、同時にScrivenerで編集する方法をとることにしました。

ここに1号あげるたびに、Scrivenerに記事を加えていき、コンパイルして自分のiPhoneのKindleに入れて読む、ということを繰り返しています。
このことで、章立てを変えたりリライトしたり、付加したりしながら、徐々に完成に近づけることができています。

出版予定7月31日を予定しています。

一つ一つの記事を、本としてまとめた時にはまた違った見え方が現れると思います。

学期末に重なり少し大変ですが、無理のないように毎日少しずつ進めていますので、何とかできると思います。



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以前,「事務仕事以外はみんな勉強」というタイトルの記事を書きました。

改めてこのタイトル見た時,最初はびっくりしました。
「いったい何言ってるんだか・・・」
私は,てっきり,事務仕事以外は全部勉強しなさい,という記事を書いたのかと驚いたんです。

読んでみると違っていました。

私たちの仕事は,夜中までかかることが多いのですが,それらは,大きく分けて事務仕事と教材研究とに別れます。
この教材研究の部分を,「勉強」と考えてインプットとして行うといいよ,という記事でした。

明日の授業の準備のために,私たちは教材研究をするのですが,忙しくなってくると,ともするとそれが事務化してしまい,「終わった,できた」とこなしたことで満足してしまいがちです。

そして,私たちが大事にしておきたい,知的な土台作りとしての読書などをする時間,知的生活としての時間をさも終わったかのように錯覚してしまいがちなのです。

本当は,終わった後に,ゆったりと読書などをしたいのに,もうそのためのリソースがのこっていません。
疲れもあるでしょう。

だから,せめて「こなす仕事」「事務」として明日の教材研究をするのではなく,「学ぶ」という視点で行うことで,それが知的な時間に転換されるのではないでしょうか。
その時間は,きっと教師としての大きな土台になっていくのだと思います。

「やらなきゃならない事務仕事」ではなく
「自分を成長させる勉強」ととらえて,インプットに転換する時間にしましょう。

そんな記事でした。
そして,私もそのようにしています。

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しかし,自分で書いた文に驚いていったいどうするんだ,という話ですが・・
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通信票の初見は,何年たっても大仕事。

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私は,とても一晩でぱっぱとかけるタイプではなく,システム手帳の一人一人のカルテに書き溜めたノートとにらめっこしながら何日もかけて書くタイプでした。

80年代終わりごろからパソコンが個人の手に入るようになってからは,「所見君」みたいな名前のソフトが発売されないかなーと思っていました。
必要事項をいくつか入力すると,最後に一つの所見として出力してくれるというような・・・

後に,PC-VANに代表されるパソコン通信に,そのものずばり「所見君」という名前のオンラインソフトがアップされてびっくりしました。
さっそく大喜びしてダウンロードして使ってみましたが,あまりの手数の多さにやめてしまいました。
こんなんなら,手で書いたほうが早いや,というわけですね。

結局手早く書くための,どの子にも使えるテンプレートというものはないのです。

でも,以下の記事で紹介しているテンプレートなら使えると思いますよ。

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dokusyo

教師の読書には以下の3通りがあると考えています。


  • おいかける読書
  • 深める読書
  • 豊かにする読書

おいかける読書とは

時事,教育界のトレンドをおいかけることです。


今の教育の動向を知っていなければなりません。それは単にニュースとして知っているだけでなくある程度詳しく知っていたいものです。


そのためには、教育雑誌を1冊とっておくことが望ましいと考えます。


自分の属する学年や教科について総合的に書かれた雑誌の他に、できれば総合的な教育雑誌に目を通しておくと、各県や市の教育委員会からおりてくる様々な教育施策についての理解が深まりますし、自分の授業や学級経営にすばやく反映させていくこともできます。


このように、教育に関する動向についての知識を得る読書のことを「おいかける読書」ととらえています。

深める読書

これは、自分の専門とする教育に関する分野の識見について、より詳しく学ぶ読書です。


教科や総合、道徳などの領域に関する専門性


学び合いやアクティブラーニングなど、教育の質をより高める現代の教育のキーワードになっている分野についての専門性


心理学や特別支援など、現代教育の課題となっていることへの専門性



そのような、「私の拠って立つある分野」を自分の専門分野と見極め、ひたすらそのことについて書かれた書物を読み深めて行くことです。


それを「深める読書」ととらえています。

豊かにする読書~「明日の授業には関係の無い」本

教師は、子どもの前に立つ以上、人にものを教える者としての人間性が必要です。


いつの時代であっても、教師は労働者であると同時に「聖職である」という気構えは持っている必要があります。

そこから醸し出される豊かな人間性に子どもはこの人から学ぶのだといううれしさと信頼を持ってくれるのだと思うのです。


そのために、古今の様々な本に触れて、自分のものの見方、感じ方を広げ深める読書をしたい者だと思います。


この読書には、昔の教師達の書いた教育上の古典があげられます。自分の教育観を深めてくれます。


また、現代・近代文学、古典、歴史(文化史、科学史、数学史なども含めて)など、「明日の授業には関係の無い」本が、自分の土台を形作ってくれます。


ぜひ、そのような自分の教師としての土台を作ってくれる豊かな読書をしていきたいなと思います。

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昨日の記事の続編です。


子どもを間違って叱ってしまうことはありませんか?


私にも何度もありました。いや,あります。


授業中にこそこそ話をしていたので叱ったら,実は,隣の子どもが困っているのを一生懸命に助けようとしていたこと。


授業中にふざけていると思ってしかったら,実際はふざけていたのは隣の子どもで,叱った子どもは一生懸命に授業をうけていたこと。


分かった瞬間,なんども子どもたちに頭を下げました。

心から謝りました。


そしてそれは何度も繰り返されました。


私はいったん子どもの姿を受け入れて,そこから指導を始めるということがへたくそだったのです。



その中で忘れられないことがあります。

3年生の運動会のダンスの指導の時です。


「腕を伸ばしなさい」と言っても,だらんとしている女の子がいました。

なんど言ってもだらん・・・


私はその子どもがやる気がないのだと思い,つかつかとその子供のところに歩み寄り,腕をとって,肘をまっすぐにし,「これ!まっすぐってこうやるの!いっしょうけんめいにやりなさい!」と叱ってしまいました。


その子は,それ以後腕をちゃんと伸ばしていました。


私は,叱ってよかったと思いました。


確かに,腕をとって,肘に手を当て,まっすぐに伸ばしてやることで「手を伸ばす」という感覚を持たせる上では悪い指導ではありません。


しかし,意図が違います。


私はやる気がない子どもに芯を入れるようなつもりでひじをまっすぐにしたのです。



しかしそれは大間違いでした。こどもはやる気がないんじゃなかったんです。



6年生になったとき,その子どもをまた担任しました。


ある日,給食をいっしょに食べながら談笑しているとき,その子は何気なく3年前の体育で私が叱ったことを話し始めました。


「まっすぐ,というのがどんなことかわからなかったの。私はまっすぐしているつもりだったけど,先生が私の腕をとってのばしたから,それで初めて私の腕は曲がっていたんだと思った。」


というのです。

やる気がないんじゃなかったのです。


「まっすぐ」に伸ばした腕の状態が自分の感覚としてわからなかったのです。


本人は頭では伸ばしているつもりだったのですが,実際には曲がっていたのだというわけです。


私はそれをやる気がないのだと勘違いし叱ってしまった。

完全な思い込みです。

私は心から頭を下げました。


その子はなんで私が謝っているのかよくわからないようでした。


腕を伸ばすとはこういうことだということを教えてくれたのだと純粋に思っていたようです。


私は,過去どれだけこのような子どもたちから助けられてきたことでしょうか。



その後も,私は凝りもせず,思い込みで子供を叱ってしまい,しまった!と思うことが何度もありました。

私は,経験から何も学べなかったのです。


結局,子どもの姿をそのまままず受け入れるということを意識して行うようになったのは,その後5年を待たなければなりませんでした。


すなわち,「傾聴」「カウンセリング」「コーチング」を勉強し始めてからの事でした。

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  • 何度言っても忘れ物をする
  • 必ずウソをつく
  • そこまで言わなくてもいいのにということを言ってトラブルになる
  • 叱られても叱られても懲りずに廊下を走る。そして怪我をする。
  • 挙手しない。さしても蚊の鳴くような声しか出さない。
  • ダンスの時、腕をまっすぐに上げない。
  • あいさつをしても,だまってとおりすぎる・・・・

こういうことが毎日のように起こります。

教師は叱っても話しても諭しても注意をしても何にも変わらず、疲弊して行く。

または、力で押さえつけ、そのうち学級が爆発する。


そういうようなことを乗り越え乗り越え、私たちは日々を壮絶に暮らしています。


そこで「どうして言っても言ってもよくならないの」と考えるフレームを、一人一人の子供に事情がある、というフレームに転換すると、ずいぶん見える世界が変わって来ます。

その子どもの行動、言葉を生んでいるものに目がいくようになるのです。

その余裕ができるのです。

んとね


実際、私もそう考えるようになって気持ちが楽になったばかりか、根源的なその子どもの行動を生んでいた障壁に気づいて取り除くことで改善した経験もあります。


まずは、子どもを自分の持つラベルに当てはめるのではなく、その子どものそのままを受け止め、「ああ、こんなことを言っているんだな」と思うことにしましょう。

何とかしなくては、とあまり思いつめないことです。

目の前のことをつつきすぎると、帰って解決が遠のくことがよくあります。


まずは受け入れる


そこから開く世界もあります。


「まず受け入れよう」 

「子どもが何か頼んできた離,ルールを破るようなことをしていた時に,いう知度その姿を受けれてみ見る。そうしてよく話を聞いてみる。「みんな事情があるのだ」そういうこうどうのしかたにいつのまにか変わっていました」


「まず受け入れてみるという感覚は,傾聴,カウンセリングという領域に私の目を開かせることになり,日々の教育の中で生かすように変わっていき,今の仕事につながっています。」


私のシドニー派遣教員日記より

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「アクティブ・ラーニング」とありますが,『学び合い』の進め方の本です。

一斉指導がだんだん難しくなっていく今日,「誰一人としてわからない子どもをつくらない」授業を行うには,子どもたちの関係づくりをすすめ,子どもたち同士の学びをコーディネートすることが必要になってきます。

 しかし,これまでの授業のパラダイムからなかなか一歩を踏み出すことができないのもわかります。
 そんな教師の背中を押す本です。
 週イチあたりからゆるく始めてみたらいい。
 それでも子どもたちの人間関係はかわります。
 でも週イチでは学力は上がりません。そのうち,子どもも教師も「いける!」と思ったら一気に舵を切ったらいい。
 そのための始め方の方法が述べられています。

 私も『学び合い』を始めた時,この本にずいぶんお世話になりました。
 課題の作り方から細かに説明してあるからです。

 子どもがかわることは間違いありません。
 学力に結びつけるには,ここから一歩踏み出すことが必要です。









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6月15日 No.46

くにゃくにゃパラダイスその3

1人の子が足の所をぐにゃぐにゃの線でいっぱいにした。

見た目には毛糸の玉が解けてもつれたようだ。

「ぐちゃぐちゃにしてしまった」ようにも見える。どれが足やらわからないほどぐにゃくにゃの線がたくさん描いてある。


「これは…」と私が言った時、ありがとても不安そうな顔をした。
怒られるのではないかと思ったのだろう。一生懸命にやった結果、画面がそうなってしまった。
子ども心にとんでもないことになってしまった、と思うほど、先がもつれていた。


私は、このような絵を見たことがある。

何に一生懸命になってこのようにしたのか大体わかった。


ある程度自信を持って彼に聞いた。


「足をいっぱいいっぱい動かした様子を描きたかったんだね?足をくにゃくにゃ動かしたように見せたかったんだね?」


彼は急にパッと顔を輝かせた。


「そうだよ!僕、足をいっぱい動かしたようにしたかったんだ!」


彼の絵を「解読」できたことを私はとても嬉しく思った。
逆に、もし「あらら、大変なことになってしまったね」と言っていたらと思うと背中を冷や汗が走る。


見た目は良くなくても、自分の思いを表すために精一杯の自分の持っている技術を使った。このような絵こそ私を褒めたい。そしてそのような絵に出会うことができたことをうれしく思う。


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一昨日Mayaさんが芝生の上でとてもきれいに色をつけていた(私は「ぬる」と言う表現を好まないので)。
底抜けに明るく、楽しい感じがした。きっととても楽しかったのだろうと思うと、嬉しかった。


M里さんのが傑作だ。楽しんで描いていると思ったら、なんと、ユーカリの木にもフラフープをさせているではないか。

「こんなこと描いたら叱られるのではないか…」などと言ういらぬ心配など全く見られない天真爛漫な気持ちの良い絵だった。

こういう絵をいつまでも見たいものだが、成長するにつれて見えないものは描かなくなっていく。それもまた発達である。


T美さんのは画面に斜めに入っていてとても迫力があった。楽しんで描いていたら、いつの間にか画面からはみだしそうになってしまいました、と言う感じの絵だ。

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6月15日 №45

くにゃくにゃパラダイス その2

先日こいのぼりフェスティバルをやったバスケットコート。その横の第一グラウンドに子どもたちと一緒に出た。


早速ラジカセをつなぎ、音楽をかける。

久保田利伸の「Keep on Jamin'」。レゲエのリズムの楽しい曲だ。とてもノリが良い。誰でも彼でも体がムズムズ動き出してしまいそうな曲だ。


私も一緒に踊りながらフラフープをまわす。とても楽しい。

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踊りながら子どもたちの顔を見るとどの顔もくしゃくしゃになっている。髪の毛がふさふさと揺れている。だんだん体が熱くなってきた。


曲が終わり、子どもたちが集まってきた。

「先生。暑いよ!」


これはいける、と思った。

体中を使って踊った後だ。「くにゃくにゃ」の体感をしっかりとつかんだだろう。


「みんな紙を横にして描きたい?縦にして描きたい?」と尋ねた。「縦にする」という答えが返ってきた。自分が踊っているところを大きく描くには縦にするほうが都合が良いのだ。

しかし子どもの「思い」によってはそうとばかりも言えないこともある。大きさについては言わなかったが、ほとんどの子どもが画面いっぱいに描いていた。ちまちました絵ではなく、踊った延長で大きく動かしながら腕を動かしながら描いているように感じられた。


何人か、画用紙を横にして小さく、描いていた。
しかし、これを「小さいからダメだ」と見てはならない。小さいが、こちゃこちゃと人間をいっぱい描いている。子どもたちは「みんなと踊って楽しかったよ」と表現しているのだ。子どもは楽しいとこちゃこちゃと描くものだ。


しかし、これはちまちました絵ではない。ちゃんと絵の中の人物が語っている。小さいが、体に動きがある。「これは誰。これは誰」とちゃんと言えるのだ。大きく描かなくても、ちゃんと自分の思いを表現することができている。これで良い。


孝S君がくにゃくにゃの様子をよく書いていたので、皆に紹介した。浩S君が感心して、自分の絵を見直し、体の動きがもっとよく表れるようにした。


浩S君は、外でやったと言うことを表すためにユーカリを描きたかった。その時、名言を成した。


「先生!ユーカリもくにゃくにゃだ!」


私はいたく感心した。


確かにその通りだ。枝の先がくにゃくにゃになっている。この「くにゃくにゃパラダイス」を外でやるよさはユーカリにもあったのだ。


私は自分で見つけられなかったことをくいた。先に見つけておれば、そこの時間の始めにユーカリを見せて、「あのようにくにゃくにゃに踊ろう!」などとおしゃれな言葉かけができたものを。


しかし、彼が見つけてくれたおかげで、絵がいっそう楽しくなった。「まるで僕を描いてと言っているみたいだ」と言ってユーカリを描き始めた子どももいる。

連絡

●今週は体育の時にマラソンをしてからオープンでの練習をする計画を立てるのですが、今日体操服持ってくるように伝えておりませんでした。申し訳ありません。明日と明後日お願いいたします。

●今日机を回りながら筆箱の中をチラチラと見せていただきました。ほとんどの子供の筆箱に赤鉛筆が入っておりました。ご協力感謝いたします。

●足し算の宿題いかがですか。「いやだ」と思わない程度に無理なく習熟できるよう、色々と工夫しているつもりですが…。

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