Lyustyleの教育ちゃんねる

6月16日 №48

算数 ひきざん

ようやく、たしざんができるようになってきたと思うと、もう「ひきざん」。

まったく、呆れる。


よほど楽しく、そして力をつける授業をしないと、
「ほらみろ、やはり入学前にある程度できるようにしておいてよかったわ。」とか
「できるようにしておけばよかった」とか言われかねないので、
汗をかきかき、算数の授業に打ち込んでいる。


子どもたちの壁は、「ひく」と言うことを理解できないことである。


「3個のりんごがあって2個食べました。残りはいくつ」を、どうしても
「3 +2 = 5」
または
「3+2=1」
とやってしまうのだ。


とにかく、徹底して「へるのだ」ということを理解させようとした。


わざと間違えて「へりさん」と言ってみたりもした。子どもたちに猛反撃をくらった。


「へるのだ」と言う事実を理解させるために、模型を作った。実際に隠してみせた。


「へる」場合を色々と発表させた。


「食べる、取られる、出て行く、消える、使う」などが出てきた。

例えば、

「5ドル持っていて、2ドル使いました。残りはいくら」

「あめが5こあって、2こ食べました。残りはいくつ」

などのように。


あれでもか、これでもか、と「へる」ことについて考えさせた。


そうしておいて、「いちごが4こありました。1こ食べました。残りはいくつ?」を式に書かせて持って来させたら、「4 +1 = 3」と書いている子どもが3人いた。


「あ、うっかり間違えた」と言っていたが、うっかり間違えて見ないほうがいい。まだ、わかっていないのだと思う。


生活のいろんな場面で、問題を作って見せようと思う。

足し算

足し算のプリントも3枚になる。レベルアップ方式にし、無理せずにできるようにしたためか、子どももそんなに嫌がってはいないようだ。


子どもには、「頭で計算できるなら、頭でやりなさい。ただ、ちょっとでも使えたら、裏に◯をかいて考えるんだよ」と言ってある。


指を使わせないほうがいいと思っている。


指を使っていると、10以上の数を扱う計算になったときに対応できない。


◯という記号を使っていると、10以上になった時にまとめて大きな円で表すことができる。この方が数の概念の理解にとって良いことだと考える。


ところで一体家でどのくらいの時間をかけてやっているのかどうか知りたいものだ。

歯!

算数の授業中M里さんの画はが抜けた。


みんなで「おめでとう」と言った。


昨夜は私の長男の葉が抜けた。2本目だ。1本目が抜けたとき「よかったなぁ。どっちだ。下か、じゃぁ、屋根に投げると強い歯に…」と言うと、妻が「何言ってるの。オーストラリアでは20セントになるのよ。」と言ったので驚いた。


翌日子どもたちに聞くとほんとだと言う。


「天使が歯を持っていく代わりに置いていくのだ」と言う子がいた。


どうも近頃の事ではなく親の代からそうだったと言う子もいた。


●この件についてご存知の方はお教えいただけませんか。

自分で動く

驚いた。算数セットが整然と並べられている。それも番号順に。


聞けば、朝、K二君とYうくん、A人くん、T博くんがみんなのためにと並べてくれたのだそうだ。


おまけに、そのことを私が気づくまでいわなかった。


完全な奉仕の精神。いたく関心。

(気づいてなかったら…と思うと…)

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この日は,めずらしく,普段常体で書いている通信を 敬体で書いています。


6月16日 ナンバー47

音読カード1枚目が終わろうとしています

今日4人の子どもたちが音読カード1枚目を終わりました。
二枚目は色が変わります。レベルアップです。


1日に一ますので、一気に追いつこうと思っても追いつきませんが、地道に続けてください。1日1回、音読。

国語修行の旅

お友達カードを配り、修行の旅が始まります。


このカードには全員の名前が書いてあり、友達と音読しあったらその友達の名前に◯をつけていくのです


今では5分かからずに3人の友達と読めます。


転入してきたMやさんも、どんどんこれで名前を覚えています。

はっぱ まっち

毎時間、少しずつ子どもたちの字をチェックしています。


今日は、「『はっぱ』と書いて持っていきなさい」といって持って来させました。「は」の字形、「っ」「ぱ」が書けるか、を調べるためです。


字形については右と左が狭い子どもがいるほかは、大体合格。「っ」を忘れている子どもふたり。「ぱ」が書けない子どもはいませんでした。



「まっち」は、新しく習った「ま」と、「っ」を調べるために書かせました。


「ま」はよくできていました。「っ」を忘れた子供は、驚き。5人。

「はっぱ」では2人だったのに、どうしてその後に書かせた「まっち」で「っ」を忘れた5人もいるのだろうか?

長音

家族の名称を全部言えば、長文を学習することができると言われます。


おか「あ」さん、おに「い」さん、おね「え」さん。


「う」列の長音は、家族の名称にはありません。

ふ「う」せん,ゆ「う」ひ,などで学習します。


「いやいや,おと「う」さんがあるじゃないか、と思いますよね。

ところが、これは「う」列の長音ではなく、「お」列の長音に入れられます。


ひこ「う」き、と「う」ふ、おと「う」と,いも「う」と…

発表させると10個ぐらい出てきましたが、「お」列の音「お、こ、そ、と、の、ほ、も、よ、ろ」を、のばすには、通常「ウ」、が使われるのです。


「おおきい、とおり、ほのお、こおり」などで「お」を使っているのは、逆に例外なのだそうです。



ちなみに、日本語では、「え」列の長音は「おねえさん」だけなんだそうです。これを「おねいさん」と書く子どもがいるので注意しなければなりません。


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(注 これは,学級通信ですが,通信中,保護者へ向けて私の指導観を述べたものです。こんなことも学級通信に書いていました。)


6月15日 No46

私の絵の指導観〜大人が子供の家を見るとき


大人は,本物のようにかけているのが上手な絵。およそ考えられないようなものはへたくその絵として見ているのではなかろうか。


子どもは3歳頃から絵をかき始める。
そのうち、◯に意味を付け出し、「これがお父ちゃん、これがお母ちゃん」などと言って画用紙の上で遊ぶようになる。


そのうち、◯に目や鼻が描かれるようになり3歳半ごろから顔から直接手や足が生えるいわゆる「頭足人」をかくようになる。

子どもが初めて自力で獲得した表現様式である。これは世界の子ども共通である。


2324


この頃から、大人は「絵」を教えようと思うようになる。


子どもは砂場か何かで遊んでいるつもりなのに、大人は絵にしないと気がすまないのだ。だから、「ひろみちゃん、お花はね、こうかくのよ」などと言って、かき方を教えるのだ。


かくして、子どもは思いを表すのに何ら工夫をすることなく、決まった様式で大量生産することになる。自分が見たあのきれいなお花はどこにもかかれず、どれもこれも全く同じチューリップらしき形をしたお花である。


そのうち、子どものほうもできるだけ上手に模倣したものが上手な絵だと思うようになり、次のような絵を見ると笑ってしまうのだ。


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(注 3年生の子どもの絵手紙。ブローチがこんなに大きいはずはない。しかし,この子の心の中でどんなに大きい存在だったことか・・・。自分のお小遣いをためて,宝石のちりばめられた宝石ブローチを買ったのだ。この絵では,略しているが,実際は,ブローチの中に̻ □がひとつひとつ丁寧に数えてみるとなんと200個近くもかかれていた。
 「何これ?ブローチだからもっと小さく描かなきゃ。それに宝石は□じゃないだろう」というか,
 「とてもたいせつなプレゼント。きっとお母さん,喜んだでしょうね。」というか。
「絵を読もうとすることが愛情である」といった方がいますが,その言葉は私の中に大切にある。)

これは、近頃では避けられなくなっている。


まず、親がしなくても、お兄さんやお姉さんたちが「あのね、お花のかき方はね」とやってくれる。兄さん姉さんがいなくても、近所の兄さん姉さんがやってくれる。


近所にお兄さん,お姉さんがいなくても、幼稚園に行き始めればちゃんと友達がやってくれる。先生が丁寧にやってくれることもある。


我が家でも,親の努力虚しく、いつの間にかあのコッペパンのような雲、チューリップのような花をかくようになってしまった。


だから、子どもの絵が白いのは幼稚園まで、と言うわれるのである。

「面白い」と言うのは、思いを表すために一生懸命に工夫をしたと言うことである。


だから、私は躍起になる。


この子たちに思いを表すために無我夢中になってもらいたい。


自分の持っている力を総動員したような絵をかいてもらいたい。そのために使う知恵が思考力として身についていくのだし、そのために使う手が技能として身に付いていくのだ。


何よりも無我夢中になることが感受性を高めていく。


安易なお人形さんは図工の時間には知らずに消えてしまうような、そんな指導がしたい。

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教育雑誌からのメモを整理していました。
もう20数年も前のメモです。

そこに下のような記述がありました。

「アメリカ合衆国では、基礎学力を一斉授業でやりたくても無理なのである。


なぜなら、子どもたちの社会的背景が非常に異なっていて、日本に比べると、同じ学年の中の子どものたちの学力差が、ある研究者によれば、日本のそれの三倍はあるからである。


移民や難民の子ども、
典型的なインテリ中流階級の子ども、
単純労働で家庭環境も悪い低所得者層の子ども等々、
文化的等質性が非常に低く、一斉授業では確実に落ちこぼれを作ってしまうことになり、「個別学習」や「個別指導」をするしかないのである。

日本でも、外国人子弟や帰国子女の増加が進めば、そのうちにそうせざるを得なくなるかも知れない。


授業研究 1993-11 403 p11」


そして今,確かに日本でもそうなっています。


一斉授業が難しくなっているのは,同じことが日本の学級でも起こるようになっているからです。


「一斉授業から協働的な学びへの転換」という21世紀型の学校の様式の変化はこのような背景からも来ていると思います。


小1プロブレムなどは,実は矯正されなければならない問題なのではなく,対処すべき課題なのでしょう。


子どもが一斉授業を受け付けなくなってきているのです。

これからの時代は,何が何でも一斉授業,一斉授業ありきの授業ではなくなっていくことと思います。

はねる

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ここで一年生の学級通信を掲載し始めて20号を超えました。
予定では30号掲載することにしていますのであと10号ということになります。

ここに書かれた通信は25年も前のものであり、在外教育施設のものであるという点において、現代の学級経営には何の役にも立たないと思われそうです。

ところが、あえて私がこれをこのブログに持ち込んだのは、次の点で、現代の日本の教育者に立って価値があるのではないかと思ったからです。

1.初めてその学年を担任したものが、その学年の発達段階や学習内容を一生懸命に研究した跡を残していること

2.保護者を巻き込んで教育のネットワークを作り、一緒に成長しようとしていること。

3.授業や様々な教育活動の実験の記録としての学級通信という形があることを

通して読んでいただければ、現代の日本のどの学年を受け持つ教師にとってもお役に立てるものではないかと思っています。

そこで、これを書籍として出版することを考えました。
Kindleの電子書籍のセルフパブリッシングを使います。
そのためには、手書きで書いたものをテキスト化しなくてはなりません。

そこでその経過をブログで配信し、同時にScrivenerで編集する方法をとることにしました。

ここに1号あげるたびに、Scrivenerに記事を加えていき、コンパイルして自分のiPhoneのKindleに入れて読む、ということを繰り返しています。
このことで、章立てを変えたりリライトしたり、付加したりしながら、徐々に完成に近づけることができています。

出版予定7月31日を予定しています。

一つ一つの記事を、本としてまとめた時にはまた違った見え方が現れると思います。

学期末に重なり少し大変ですが、無理のないように毎日少しずつ進めていますので、何とかできると思います。



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以前,「事務仕事以外はみんな勉強」というタイトルの記事を書きました。

改めてこのタイトル見た時,最初はびっくりしました。
「いったい何言ってるんだか・・・」
私は,てっきり,事務仕事以外は全部勉強しなさい,という記事を書いたのかと驚いたんです。

読んでみると違っていました。

私たちの仕事は,夜中までかかることが多いのですが,それらは,大きく分けて事務仕事と教材研究とに別れます。
この教材研究の部分を,「勉強」と考えてインプットとして行うといいよ,という記事でした。

明日の授業の準備のために,私たちは教材研究をするのですが,忙しくなってくると,ともするとそれが事務化してしまい,「終わった,できた」とこなしたことで満足してしまいがちです。

そして,私たちが大事にしておきたい,知的な土台作りとしての読書などをする時間,知的生活としての時間をさも終わったかのように錯覚してしまいがちなのです。

本当は,終わった後に,ゆったりと読書などをしたいのに,もうそのためのリソースがのこっていません。
疲れもあるでしょう。

だから,せめて「こなす仕事」「事務」として明日の教材研究をするのではなく,「学ぶ」という視点で行うことで,それが知的な時間に転換されるのではないでしょうか。
その時間は,きっと教師としての大きな土台になっていくのだと思います。

「やらなきゃならない事務仕事」ではなく
「自分を成長させる勉強」ととらえて,インプットに転換する時間にしましょう。

そんな記事でした。
そして,私もそのようにしています。

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しかし,自分で書いた文に驚いていったいどうするんだ,という話ですが・・
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通信票の初見は,何年たっても大仕事。

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私は,とても一晩でぱっぱとかけるタイプではなく,システム手帳の一人一人のカルテに書き溜めたノートとにらめっこしながら何日もかけて書くタイプでした。

80年代終わりごろからパソコンが個人の手に入るようになってからは,「所見君」みたいな名前のソフトが発売されないかなーと思っていました。
必要事項をいくつか入力すると,最後に一つの所見として出力してくれるというような・・・

後に,PC-VANに代表されるパソコン通信に,そのものずばり「所見君」という名前のオンラインソフトがアップされてびっくりしました。
さっそく大喜びしてダウンロードして使ってみましたが,あまりの手数の多さにやめてしまいました。
こんなんなら,手で書いたほうが早いや,というわけですね。

結局手早く書くための,どの子にも使えるテンプレートというものはないのです。

でも,以下の記事で紹介しているテンプレートなら使えると思いますよ。

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dokusyo

教師の読書には以下の3通りがあると考えています。


  • おいかける読書
  • 深める読書
  • 豊かにする読書

おいかける読書とは

時事,教育界のトレンドをおいかけることです。


今の教育の動向を知っていなければなりません。それは単にニュースとして知っているだけでなくある程度詳しく知っていたいものです。


そのためには、教育雑誌を1冊とっておくことが望ましいと考えます。


自分の属する学年や教科について総合的に書かれた雑誌の他に、できれば総合的な教育雑誌に目を通しておくと、各県や市の教育委員会からおりてくる様々な教育施策についての理解が深まりますし、自分の授業や学級経営にすばやく反映させていくこともできます。


このように、教育に関する動向についての知識を得る読書のことを「おいかける読書」ととらえています。

深める読書

これは、自分の専門とする教育に関する分野の識見について、より詳しく学ぶ読書です。


教科や総合、道徳などの領域に関する専門性


学び合いやアクティブラーニングなど、教育の質をより高める現代の教育のキーワードになっている分野についての専門性


心理学や特別支援など、現代教育の課題となっていることへの専門性



そのような、「私の拠って立つある分野」を自分の専門分野と見極め、ひたすらそのことについて書かれた書物を読み深めて行くことです。


それを「深める読書」ととらえています。

豊かにする読書~「明日の授業には関係の無い」本

教師は、子どもの前に立つ以上、人にものを教える者としての人間性が必要です。


いつの時代であっても、教師は労働者であると同時に「聖職である」という気構えは持っている必要があります。

そこから醸し出される豊かな人間性に子どもはこの人から学ぶのだといううれしさと信頼を持ってくれるのだと思うのです。


そのために、古今の様々な本に触れて、自分のものの見方、感じ方を広げ深める読書をしたい者だと思います。


この読書には、昔の教師達の書いた教育上の古典があげられます。自分の教育観を深めてくれます。


また、現代・近代文学、古典、歴史(文化史、科学史、数学史なども含めて)など、「明日の授業には関係の無い」本が、自分の土台を形作ってくれます。


ぜひ、そのような自分の教師としての土台を作ってくれる豊かな読書をしていきたいなと思います。

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昨日の記事の続編です。


子どもを間違って叱ってしまうことはありませんか?


私にも何度もありました。いや,あります。


授業中にこそこそ話をしていたので叱ったら,実は,隣の子どもが困っているのを一生懸命に助けようとしていたこと。


授業中にふざけていると思ってしかったら,実際はふざけていたのは隣の子どもで,叱った子どもは一生懸命に授業をうけていたこと。


分かった瞬間,なんども子どもたちに頭を下げました。

心から謝りました。


そしてそれは何度も繰り返されました。


私はいったん子どもの姿を受け入れて,そこから指導を始めるということがへたくそだったのです。



その中で忘れられないことがあります。

3年生の運動会のダンスの指導の時です。


「腕を伸ばしなさい」と言っても,だらんとしている女の子がいました。

なんど言ってもだらん・・・


私はその子どもがやる気がないのだと思い,つかつかとその子供のところに歩み寄り,腕をとって,肘をまっすぐにし,「これ!まっすぐってこうやるの!いっしょうけんめいにやりなさい!」と叱ってしまいました。


その子は,それ以後腕をちゃんと伸ばしていました。


私は,叱ってよかったと思いました。


確かに,腕をとって,肘に手を当て,まっすぐに伸ばしてやることで「手を伸ばす」という感覚を持たせる上では悪い指導ではありません。


しかし,意図が違います。


私はやる気がない子どもに芯を入れるようなつもりでひじをまっすぐにしたのです。



しかしそれは大間違いでした。こどもはやる気がないんじゃなかったんです。



6年生になったとき,その子どもをまた担任しました。


ある日,給食をいっしょに食べながら談笑しているとき,その子は何気なく3年前の体育で私が叱ったことを話し始めました。


「まっすぐ,というのがどんなことかわからなかったの。私はまっすぐしているつもりだったけど,先生が私の腕をとってのばしたから,それで初めて私の腕は曲がっていたんだと思った。」


というのです。

やる気がないんじゃなかったのです。


「まっすぐ」に伸ばした腕の状態が自分の感覚としてわからなかったのです。


本人は頭では伸ばしているつもりだったのですが,実際には曲がっていたのだというわけです。


私はそれをやる気がないのだと勘違いし叱ってしまった。

完全な思い込みです。

私は心から頭を下げました。


その子はなんで私が謝っているのかよくわからないようでした。


腕を伸ばすとはこういうことだということを教えてくれたのだと純粋に思っていたようです。


私は,過去どれだけこのような子どもたちから助けられてきたことでしょうか。



その後も,私は凝りもせず,思い込みで子供を叱ってしまい,しまった!と思うことが何度もありました。

私は,経験から何も学べなかったのです。


結局,子どもの姿をそのまままず受け入れるということを意識して行うようになったのは,その後5年を待たなければなりませんでした。


すなわち,「傾聴」「カウンセリング」「コーチング」を勉強し始めてからの事でした。

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  • 何度言っても忘れ物をする
  • 必ずウソをつく
  • そこまで言わなくてもいいのにということを言ってトラブルになる
  • 叱られても叱られても懲りずに廊下を走る。そして怪我をする。
  • 挙手しない。さしても蚊の鳴くような声しか出さない。
  • ダンスの時、腕をまっすぐに上げない。
  • あいさつをしても,だまってとおりすぎる・・・・

こういうことが毎日のように起こります。

教師は叱っても話しても諭しても注意をしても何にも変わらず、疲弊して行く。

または、力で押さえつけ、そのうち学級が爆発する。


そういうようなことを乗り越え乗り越え、私たちは日々を壮絶に暮らしています。


そこで「どうして言っても言ってもよくならないの」と考えるフレームを、一人一人の子供に事情がある、というフレームに転換すると、ずいぶん見える世界が変わって来ます。

その子どもの行動、言葉を生んでいるものに目がいくようになるのです。

その余裕ができるのです。

んとね


実際、私もそう考えるようになって気持ちが楽になったばかりか、根源的なその子どもの行動を生んでいた障壁に気づいて取り除くことで改善した経験もあります。


まずは、子どもを自分の持つラベルに当てはめるのではなく、その子どものそのままを受け止め、「ああ、こんなことを言っているんだな」と思うことにしましょう。

何とかしなくては、とあまり思いつめないことです。

目の前のことをつつきすぎると、帰って解決が遠のくことがよくあります。


まずは受け入れる


そこから開く世界もあります。


「まず受け入れよう」 

「子どもが何か頼んできた離,ルールを破るようなことをしていた時に,いう知度その姿を受けれてみ見る。そうしてよく話を聞いてみる。「みんな事情があるのだ」そういうこうどうのしかたにいつのまにか変わっていました」


「まず受け入れてみるという感覚は,傾聴,カウンセリングという領域に私の目を開かせることになり,日々の教育の中で生かすように変わっていき,今の仕事につながっています。」


私のシドニー派遣教員日記より

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