(注 これは,学級通信ですが,通信中,保護者へ向けて私の指導観を述べたものです。こんなことも学級通信に書いていました。)
6月15日 No46
私の絵の指導観〜大人が子供の家を見るとき
大人は,本物のようにかけているのが上手な絵。およそ考えられないようなものはへたくその絵として見ているのではなかろうか。
子どもは3歳頃から絵をかき始める。
そのうち、◯に意味を付け出し、「これがお父ちゃん、これがお母ちゃん」などと言って画用紙の上で遊ぶようになる。
そのうち、◯に目や鼻が描かれるようになり3歳半ごろから顔から直接手や足が生えるいわゆる「頭足人」をかくようになる。
子どもが初めて自力で獲得した表現様式である。これは世界の子ども共通である。
この頃から、大人は「絵」を教えようと思うようになる。
子どもは砂場か何かで遊んでいるつもりなのに、大人は絵にしないと気がすまないのだ。だから、「ひろみちゃん、お花はね、こうかくのよ」などと言って、かき方を教えるのだ。
かくして、子どもは思いを表すのに何ら工夫をすることなく、決まった様式で大量生産することになる。自分が見たあのきれいなお花はどこにもかかれず、どれもこれも全く同じチューリップらしき形をしたお花である。
そのうち、子どものほうもできるだけ上手に模倣したものが上手な絵だと思うようになり、次のような絵を見ると笑ってしまうのだ。
(注 3年生の子どもの絵手紙。ブローチがこんなに大きいはずはない。しかし,この子の心の中でどんなに大きい存在だったことか・・・。自分のお小遣いをためて,宝石のちりばめられた宝石ブローチを買ったのだ。この絵では,略しているが,実際は,ブローチの中に̻ □がひとつひとつ丁寧に数えてみるとなんと200個近くもかかれていた。
「何これ?ブローチだからもっと小さく描かなきゃ。それに宝石は□じゃないだろう」というか,
「とてもたいせつなプレゼント。きっとお母さん,喜んだでしょうね。」というか。
「絵を読もうとすることが愛情である」といった方がいますが,その言葉は私の中に大切にある。)
これは、近頃では避けられなくなっている。
まず、親がしなくても、お兄さんやお姉さんたちが「あのね、お花のかき方はね」とやってくれる。兄さん姉さんがいなくても、近所の兄さん姉さんがやってくれる。
近所にお兄さん,お姉さんがいなくても、幼稚園に行き始めればちゃんと友達がやってくれる。先生が丁寧にやってくれることもある。
我が家でも,親の努力虚しく、いつの間にかあのコッペパンのような雲、チューリップのような花をかくようになってしまった。
だから、子どもの絵が白いのは幼稚園まで、と言うわれるのである。
「面白い」と言うのは、思いを表すために一生懸命に工夫をしたと言うことである。
だから、私は躍起になる。
この子たちに思いを表すために無我夢中になってもらいたい。
自分の持っている力を総動員したような絵をかいてもらいたい。そのために使う知恵が思考力として身についていくのだし、そのために使う手が技能として身に付いていくのだ。
何よりも無我夢中になることが感受性を高めていく。
安易なお人形さんは図工の時間には知らずに消えてしまうような、そんな指導がしたい。
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