授業を見て学ぶ機会は沢山あります。
研究授業、自主授業研究など。

その中で、「お!すごいな。子どもが一人残らず集中している」と思える授業に出会います。

そんな授業を行う先生は、決まって子どもの発表やつぶやきを、一生懸命に聞いています。
決して、自分の立てた授業の流れに沿わせるように子どもの言葉を改変しようと思って聞いているのではなく、子どものいうことそのものを受け止めているのです。

そこから、授業の組み立てをし直すので、リアルタイムに授業案が変わって行きます。当然指導案の通りには行きません。

でも、そういう授業は生きています。子どもたちはその授業の中で活かされていますので、安心して授業に没入できるのでしょう。

学んだことを言葉にした途端、子どもが自分のこと思い通りのことを言ってくれなかった教師から苦い顔をされることを繰り返されると、子どもは教師の思うようにしようとするようになるか、勉強しているふりをするようになるか、もっと直接的には、ざわざわし始めるかです。
とても、主体的で対話的な深い学びどころではありません。

立てた計画はあくまでも仮説ですから、その検証を使命とする授業でなければ、その場でどんどん変えていけばいいのです。

でも、これはこれで、修行が必要です。
今、この時にある、ピンポイントでの子どもの姿を丸ごと受け止める微視的な見方は、授業全体を俯瞰し、目標の達成まで引っ張っていく巨視的な見方と常につながっていなければなりません。

そして、それは次々に更新されていくのです。

まさに神業。

しかし、若い頃から修行すればその二つの起点はリアルタイムにリンクできるようになります。

そのための第一歩は、子どもの言葉を丸ごと受け止めることではないでしょうか。

まず、微視的に受け止める力を身につける。最初はそこに振り回されたり、瞑想したりすることもありますが、恐れないでどんどんリアルタイムに流れを変えて欲しいと思います。

10年もすると、リンクできるようになりますので。