Lyustyleの教育ちゃんねる

2014年11月

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今晩は!Lyustyleです。 

今日は、退勤処理の後に職場に残って勉強をしていたら、読んでいた本の中でこのような文言に出会いました。
「教師が説教したり、叱ったりして忘れ物がなくなるでしょうか。それはなかなかの難問です。かえって借りに来ることさえあきらめてしまうようになる子供もいます」
通常学級で使える「特別支援教育ハンドブック」という本です。

近頃は特別支援教育をしっかり学ばなければと思い、基本的な本を求めて読んでいるのですが、その中にあった文です。 むらむらと何かかかなきゃという気持ちになりましたので、今日はこんなことを書いてみたいと思います。

忘れ物をした子どもをしからないで済む「忘れ物カード」

忘れ物をして困っているのに、なぜ忘れ物をするのかを考えてしまいがちな私達

教師は、子供が忘れ物をすると「大変だ。何とかしなければ」と思います。
そしてつい忘れ物する根源を断とうとあせり、「叱る」ことで忘れ物をしないようにしようという気持ちを持たせようとすることがよくあります。(私も)

ところが、忘れ物をしたその時に必要なことは、とりあえずものを準備させてその時間の学習が困らないようにしてやることです。忘れ物がなくならない、ということと、その時間にものがないことで学習に支障をきたしていることとは別問題なのです。

それをどうしても教師は「困るのは、忘れ物をなくそうと努力しないからだ」という考えに支配されてしまって、ついお説教をしてしまうのです。
せっかく忘れました、と言いに来たのに。 (私も)

今必要なことは、学習に困らないように忘れたものを借りてこさせることです。そのために「忘れました」と自分から言ってこさせること、そして学習が始まる前にものを準備させておくことが必要です。

忘れ物をなくさせるための取り組みは、その時間に行うことではなく、学習後や放課後などに行うべきことなのです。

これがなかなかできず、せっかく勇気を出して来た子に説教し始めてしまう。

「何度も繰り返される」ことに対するいらだちでしょうか。
「あれだけ毎日貸してあげているのにまったく忘れ物をなくそうとしない。これは私が毎日最終的には貸してあげているから甘えているのだ。もう貸さないぞ!」というような心境になることもあります。

こうやって説教されると、冒頭にあったように子どもは「忘れました」といって借りにいくことをあきらめるようになるでしょう。あとで見つかっておこられても同じこと。

あきらめる子どもをつくらない忘れ物カード

しかし、これをふせぐ方法があります。 わたしが行ってきた「わすれものカード」です。
つくって20年以上になるでしょうか。 これをつくってからわたしは忘れ物で子供を説教することがなくなりました。 カード自体はいたって簡単。よくあるこんなカードです。   wasure

その学期、初めて忘れものをした子供にカードをわたします。

「月日」があります。「宿・もの」というのは、宿題忘れか、ものを忘れたのか、ということ。 よくあるカードです。

しかしここからがちがいます。 一番右に「何回目」かという欄があるんです。

子供がカードをもってきたら、「はい」といってすぐににカードを返します。 その時にこの「何回目」を見るのです。そうすれば「何度も繰り返している子か」それとも「今日はじめてその教科のものを忘れたのか」が一目でわかるのです。

このカードをつかっていなかった頃は、学習の始まりに子供がずらっとならんで「○○わすれました」というのを「わかった。」「はい」「次は忘れるな」と指導をし、授業をはじめていました。

ところが時にはたくさんの子が忘れて列が長くなることがあります。
10人くらいになってくるとだんだん腹がたってきて「なんだ!」などと声をはりあげてしまうようなことがあったのです。

普段から忘れている子は慣れていて要領がいいのでなるべく早く言いに来ます。
しかし列の後のほうにくる子たちは往々にしてむしろ普段あまりものを忘れない子たちであることが多かったのです。

よく忘れる子には叱らず、あまり忘れない子たちを叱ってしまう。

このことの反省から、わたしは忘れ物カードをつくり、「何回目」という欄をいれました。

これで、毎回忘れる子とめったに忘れない子がすぐにわかるようになり、理不尽な叱り方をせずともよくなりました。

また、よく忘れる子も、なんでもかんでも忘れるわけではなく、国語の教科書ばかり何度も忘れるとか、今日忘れた算数のノートは実は初めてだったとかそういうこともわかります。
だから、初めて忘れた算数のノートの時には「今度は忘れないようにね」と冷静にいうことができるのです。

このカードは子供にとってもいい。 さすがに回数のところに「4」と書かなければならない子は、こりゃなんとかしないといけないぞ、と自分で自覚するようになります。
自分がこの忘れ物をしやすいことが「見える」ようになるからです。 「回数」を書くという工夫だけで、子供たちとの学習が自然に進んでいくようになりました。 こうして「忘れました」と言いにくることをあきらめさせるようなことはなくなったといえます。  

むしろほめることさえできる忘れ物カードの運用

さらに、一言。私はこのカードを持ってくるときに、すでに友達に借りたものも添えてもってくるようにさせていました。

そして「先生。教科書、忘れました。でもとなりのクラスの子に借りてきました!」そういって、すでに借りてある教科書といっしょにカードを持ってこさせるのです。
これでその子は勉強に困らないし、「よし、ちゃんと借りてきたね」とほめることさえできるのでした。

さらにもうひとつ。

  最初に「その学期、初めて忘れものをした子供にカードをわたします。」と書きました。 javascript:void(0)

そうです。1学期が終わってこのカードをもたないままの子どももいるのです。

そんな子たちは手放しでほめました。 何とか最後までカードをもらわないで済ませようと一生懸命に準備をする子どももいました。

でも、6月になって初めてノートを忘れ、残念そうな顔でカードを貰いに来る子どものかわいらしい顔。

時々リセット

それでも、学期が変わったらリセットです。全員リセット。まったくゼロから開始です。

  今日はそんなことを思い出しました。  

追記

続きを書きました!

その2【教育現場の工夫】忘れ物をした子どもをしからないで済む「忘れ物カード」のふたつの秘密 | 教師の知的生活ネットワーク





追記 2014/11/28

この記事は、知的生活ネットワークより、こちらへ移動してきたものです。
  【教育現場の工夫】忘れ物をした子どもをしからないで済む「忘れ物カード」 | 教師の知的生活ネットワーク
こちらから移転してきました

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私たち教師は「研究授業」というものをやります。

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「指導案」という、授業の設計図をレジュメにして配り、他の教師たちが見ている前で授業を行い、あとからその授業の良しあしについて協議しあうのです。


この研究授業によって、若い教師は授業の腕を伸ばし、育っていきます。


今日、受けた研修で、研究授業は明治以来の日本の文化であることをしり、少々驚きました。

それと同時に、アメリカの学者が世界の教師の教授法を検討したところ、日本の十業者の授業が一番理想に近かった。その理想というのは、教師が教えるのではなく、子供が自ら考えて解決して答えを見つけ出す授業です。日本の教師の指導法がいちばんこれに近かったというのです。

その理由を調べたところ「日本では研究授業なるものを行っている。これがよい授業を生む秘密だ」と結論し、本にまとめたところ世界中でベストセラーになり、現在、研究授業が世界中で行われるようになってきたとのこと。しかし、当の日本では、忙しいことを理由にだんだんおこなわれなくなっていること・・・そのようなことを聞いてきました。


研究授業。私も毎年少なくとも1本は必ず指導案を書いて授業を見に来てもらってきました。今年で27年目になりますが、毎年必ず行ってきました。


その中で確かに授業の技、教材の研究のしかたなどを身につけてきたと思います。


ところが、いわゆる「研究授業」ばかりが行われ「授業研究」の視点があまり問われなくなってきているのではないかと思います。


「研究授業」とは、各学校が設定したテーマにより、仮説をたて、その仮説を実証するために行う授業です。授業後の協議会では、仮説を検証するための手だてが有効であったかどうか、が焦点となります。


しかしそこでは、授業の腕に関する部分がとわれることはありません。「言葉が早い」とか、「子供のほうを見ていない」とか「教師がしゃべりすぎる。もっと子どもにたくさん活動させる時間を・・」とか、そのような授業技術にかかわることは協議会ではあまり問われないのです。テーマ仮説の検証が優先であって、授業技術について話し合う時間はないのです。

かくして、せっかく研究授業のチャンスを得ながら、「授業が上手になる」ためのアドバイスなどはなかなか得られないのです。


このような授業の腕に視点を置いた授業を,「研究授業」にたいして「授業研究」という場合があります。

ことばを単にひっくり返しただけではありません。前者は仮説検証。後者は授業法自体に焦点を当てるという意味があるのです。


研究校に長くいると、仮説検証授業ばかりをおこないがちですからそれが当たり前のような感覚になります。

しかし、「授業が上手になりたい」という若い教師のねがいを実現するには、「授業研究」の視点も必要だと思うのです。

授業研究をたくさんおこなって、授業の腕をあげつづけていきたいものです。

2014/11/16 追記


 
研究授業か 授業研究か・・・・ | 教師の知的生活ネットワーク
こちらから移動してきました。

どうぞよろしくお願いします。
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人の話を最後まで聞く
これをするだけで、相手がこちらを信頼して安心して話をしてくれるのに、

途中で話をさしはさんだり、

「なんだ、そんな馬鹿なことしたのか」と評価したり

「そりゃ、お前が悪いだろ」と助言したり

「あ!なるほど!こうなるわけだ!」と予測して、おいしいところをもっていったり

 

そんなことをついしてしまうもんだから、相手は

「もういいや」「どうせきいてくれんし」

「途中で切らないで最後まではなさせて」

となって、心を閉ざしてしまう。

昔は、叱っている子どもが途中でだまりこくってしまうことがよくあった。

その気持ちがわからず、

「ちゃんと返事をしないか」

「どうしてこうしたのかきちんと言葉ではなさないか」など、

ずいぶん腹をたてて怒ったものだ。

 

当たり前だ。

話をしている途中で

「それで!!」と威圧的に先をうながしたり

「な~に~!!?」と怒りをあらわにしたり

 

それじゃ、何も言えなくなってしまって当たり前だ。

 

まず、聞く。

話し終わるまで、じっくりと聞く。

「はやく話終われ!」と願ったらだめだ。

顔や動作に出る。

はらをくくって、心を沈めて、とにかくまるごとその子をうけとめるつもりできく。

子どもが悩みや困りごとを話してくれるようになるにはそれしかない。

ちかごろすごくそう思う。
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追記2014/ 11/13

この記事はこちらから移転してきました。

人の話を最後まで聞く | 教師の知的生活ネットワーク
こちらから移転してきました。

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先日、文科省の方の話を聞く機会がありました。
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新しい指導要領が求めている学力を身につけさせる授業とはどんな授業なのかを多くのビデオクリップをもとにわかりやすく示していただきました。
 

内容についてはちょっと首を傾げざるを得ないところがありましたが、さすがに授業を何百本もご覧になっているだけあって、授業参観の視点は沢山お持ちだなと思いました。


たとえば、「先生のこの言葉で、これまで発表する子どもの方を向いていた他の子供達の目線が一度の教師の方に向いてしまいました。」と言われました。
先生がしゃべりすぎるので子ども達がお互いに発言を仕合ながら学び合っていくという授業が出来なくなったということをお話なのです。


恥ずかしながら、私にはそこまでは見えなかっただろうなと思います。


子どもの発言や、教師の発問の仕方、教材の提示の仕方などはしっかり見るでしょうが、その一瞬の子ども達の視線を捕らえて授業の判断をするという視点まではその時点では持ち得なかったのではないかなと思います。


いや、持ち合わせていたかもしれません。その時そこにいれば、もしかしたらそういう視点が出てきたかも容れません。

上のは例えであって、ここでいいたいのは、個々の視点が云々ではなく、授業の視点というものは、沢山の授業をしたり、見たりすることによってどんどん増えていくのだろうということです。 ただぼおっと見ていたのでは決して身につかない教師の技能です。


視点が多ければ多いほど自分の授業改善の糧になります。


見た授業について、協議会の中で他の先生達の視点をどんどんメモして自分のものにして行き、「自分の授業の力量を高めるために視点を増やすのだ」という意識を持ってそれをまとめ、次の授業参観に役立てていくのがいいですね。


授業の技量をどんどん高めるためにお互いに努力を続けましょう。

追記 2014/11/12

授業を見る視点をいくつもっているか | 教師の知的生活ネットワーク
ここから移動してきました。


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担任の先生が出張にいくときなど、自習中のクラスに行って勉強を見ることがある。

そのとき、せっかくそのクラスに来たのだからということで10分くらいもらってお話をしてあげることがある。

そんな時は決まって「怖い話して~!」と言われる。

 

「だ~め。君たち、怖い話聞くとおねしょするから。」というと

「しない~!!」

「寝る前、トイレいくもん!」

という返事がこれも決まって返ってくる。

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そこで、してあげるのが「怖いけどじーんとくる話」とか「怖いけどおかしい話」など。

この前は2年生に、毎晩自分の子供の為にあめを買いに来る女の幽霊の話をしてあげた。

幼い赤子を残して死んでしまったお母さんが、残した赤子のために毎日あめやさんにあめを買いに来てはなめさせてあげてた、というお話。

途中は「わ~!こわい~!」という顔をして聞いている子どもたちが

最後にはなんともいえないじーんとした顔をしながら聞いているのを見るのが好きで、よくしてあげる。

 

この学校の7不思議などもよくでっちあげて話してあげる。

「わあああ!!!」

とびっくりするが、これも最後には

「な~んだ!」とおもしろいオチをつけてあげる。

こわがらしたまま帰るとときどきトラウマになる子どもがいるので、

「先生、その話、本当ですか・・・?」と聞いてくる子には

「うそだよ~~~ん!!」

といって安心させてから帰すのも大事なこと。

 
追記 2014/11/11
この記事は、「教師の知的生活ネットワーク」から移動してきたものです。
 

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tomodachi




以前、同窓会をした時のこと。すでに40を越えた卒業生の方が、私に言ってくれた言葉です。

私が教師になって最初の教え子さんでした。

当時、教師になったばかりでろくな授業も出来なかった私は、せめて学級通信を一生懸命に書いて保護者とつながろうとおもっていたのでした。

「そんな暇があるなら教材研究しろよ」と今の私ならツッコミをいれたくなりますが、それでも、学級通信という日本の教育界における大切な文化である(と私が信じている)ことについて一生懸命考えて取り組んだことはそれなりに価値のあることであったとも思います。



その学級通信を、わたしはひたすら自分の手描きのカットにこだわって描いていました。カット集から切って貼る(まだコピーは高価で学校では十分に使わせてもらえる時代ではありませんでした)のが一般的な時代、なんだか味気なく思えて必死に手描きをしていたものです。



それはたんなる私のこだわりで、出来上がりはカット集の切り貼りの方がはるかにきれいなわけです。

ところがまさかのタイトルの言葉。

「学級通信の絵を自分で描いてるのか〜」と驚いていたということです。



意外でした。

子どもというのは、そんな風に私達が作ったものを丁寧にみてくれているんですね。

確かに、当時、なにがおもしろいのかわからないけど、学級通信をだしてだして!といってくれていた子どもがいた事を思い出します。

ご家族向けに書いているのに、この子はどうしてこんなに私の通信を読みたがっているんだろう、と当時は不思議に思ってましたが、きっとまだ若いお兄さんのような教師であった私がつくるものにはみんな興味をもってくれていたんだな、と今になってありがたい気持ちでいっぱいになってます。

追記 2014/11/10


教師の知的生活ネットワークより移転してきました。

  「先生は、学級通信の挿絵を手描きで描いてくれましたね」 | 教師の知的生活ネットワーク
ここから移転してきました。

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jugyou

新任の先生の授業の指導をする。

本時のめあてが何なのか、そのための活動と内容は、そして教師の指導上の留意点は・・・。

その辺の意味をまだよくわからずに作っている指導案だ。

ひとつひとつ大事に指導してあげなければならない。

指導案は形式的ではあるが、形式の意味をよく理解して書くことによって、教師は授業を自分によく分かる形で設計できる。

人に見てもらうように書くことで、自分にもよくわかるようになる。

定められた形式で人が読んでよくわかる形で指導顔をかけるということが、自分がその授業をよく研究し、理解し、設計をすることができたということだ。


また、新任の先生は「よい授業」についてのイメージがまだ少ない。

どのような授業が良い授業なのか、また自分の中にそのモデルがないのでどんな授業を組み立てたらいいのかがわからないのだ。

今の段階において持っている授業のモデルは、自分が子どもの時に受けた授業なのである。

先生がずっと喋り続ける授業や答え当ての授業、一問一答形式の授業などばかり受けてきた人はそんな授業のモデルしか知らないのだから自分もそのようにするしかない。

しかし先輩の先生の授業を参観したり、授業書を求めて読んだりすることの繰り返しを積み重ねていくことで、このような授業をつくりたいというモデルがいくつも自分の中にできるようになる。

そこからが教師修行のためにの第2のスタートといってもいいだろう。

そのためには、先輩の授業を見に行かせてもらっ
たり、若い先生たち同士でお互いの授業を見せ合ったり、と言った風通しの良い中でのOJTが必要になってくる。

たくさん授業を見ることだ。そしてよいと思ったことをどんどん取り入れて自分の一部に組み込んでいくことだ。

そしてそこから、自分の授業観を作っていく。

子どものための優れた授業ができる教師になるには、若い頃いかに多くの優れた授業をみるかということにかかっているとも言える。

自分の授業を見てもらいそして厳しく批評をもらうということはとても大切なことだが、まず良いモデルをたくさん持っておくことが先だという気がする。

追記 2014/11/9


これは、2012年6月に「教師の知的生活ネットワーク」に書いた記事を移動してきたものです。
 
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以前、下のような記事を書きました。

まさか、お家の方向けに書いている学級通信を、そんな視点で見てくれているなんて思いもしなかったので、とても驚いた、という記事です。

「先生は、学級通信の挿絵を手描きで描いてくれましたね」 | 教師の知的生活ネットワーク

このエントリーのもとになった小さな同窓会が昨日ありました。

昨年のことがありましたので、今回は当時の学級通信をもっていって見せてあげました。 すると、それを言った方が、今度はまた「へえ!!」と思うようなことを言ってくれたのです。

  「先生が書く記事の見出しのフォントに興味がありました」 これまたびっくりです。

今だから「フォント」と言ってますが、手書きですからフォントも何もありません。 私が勝手にデザインした見出し文字です。 白抜きにしたり、網掛けをしたりしながら、少しでもレイアウトが楽しくなるようにと思って書いてました。 ひとつひとつ違ったデザインになるように、いろんなデザインブックを見て研究していたものです。

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みんなそうやっているのだと思ってましたが、その方は、「いや、こんな紙面は先生が初めてでし
た」と言われていました。

  今はどうなでしょう。 当時は「学級通信」という文化があり、参考書もたくさん発行されていました。 そして、それらを見ながらワクワクしながら紙面をデザインし、発行していたものでした。

今ならさしずめブログを書くような気持ちだったと思います。

  近頃は、ワープロとデジカメ、挿絵カットCDなどで手軽に通信ができてしまいます。 効率的に、訴える力のある通信ができるので、できた時間を教材研究に回せます。

  でも、時々は、手書きにしてみるのもいいんじゃないかなと思います。

文章だけはワープロで打っても、挿絵だけは手描きというのもなかなか味があるものですよ。
 
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登校してきたとき、遊びから帰ってきた時、くつをそろえてくつばこに入れさせる指導をします。

その時、奥にそろえるのではなく、手前のへりにかかとをそろえるように指導するといいですよ。

それは、奥にそろえるときに比べて、いったん動作をとめることができるからです。


奥にいれていると、たたっと走りながらでもうまいこはそろえて入れられます。やぶさめの矢のように、かけぬけながらうわぐつを取り出し、運動靴をすすっと奥に突っ込むことができるのです。
たいていの子そもはそんなにうまくありませんから、奥に跳ね返ってくつがおどり、右の靴の上に左の靴がのっかってしまったままそれに気づかず行ってしまうというようなことが起こります。
気持ちの切り替えもできないままです。

しかし、手前のへりにそろえて入れるには、どうしてもいったんそこで立ち止まらざるを得ません。くつを入れた後、手前に引き戻してそっとへりに合わせるという動作がいるからです。

その結果、流れるように走ってきた子どもたちがいったんそこで止まり、そのあとは歩いて教室へ向かうという流れができます。

気持ちの切り替えだけでなく、安全面からもよいです。
せまい昇降口にわっと何人もの子どもが集まると押したりつまずいたりでけがをする子どももでます。
その点、手前のへりにそろえることで走り抜ける子どもが減るのでけがの防止にも役に立つんです。

ボールあそび
それに、見た目もとてもきれいですよ。
 
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今日もevernoteから。
ちょうど1年ほどまえにTwitter経由でevernoteに放り込んでおいたメモに次のようなのがありました。

10/02/16 18:51

これまで培ってきた経験だけで教えてはいけない。 大事なことは教える側も現在進行形でまなびつづけなければならないし、それも教わる側の何倍もの速度で学び続けていくべきである
「若い教師を育てる」 成田幸夫

この題名の本を読んだ覚えは無いので、講演なで紹介された本の内容でしょう。

evernoteを使う時は、コンテキスト(場所、時間などの属性)や出典などを明らかにしておかなければならないな、と反省。

さて、「これまで培ってきた経験だけで教えてはならない」というのは重いことばだなあと思います。 この世界には、昔からこうやっている、という安心感の上に立っていたいという誘惑が渦巻いています。

よく言われるのが毎年毎年同じノートで講義をし続ける大学の教授。
教え方だとか、教える内容などを高めて行くエネルギーが消え失せてしまって、学生相手にごまかしながら講義をこなしている姿。(あくまでも物語などの設定の話ですよ)

これと同じことに、教師は陥りやすいと思います。

昔、このやり方で子供がすごくやる気が出て学習の効果もあったので、私はずっとこのやり方で行こう、と決めてしまいがちになります。

ところが時代とともに子どもも、子どもを取り巻く環境も変わり実態は大きく変わってしまったのに、その事に気づかず、もしくは目を瞑り、昔と同じ考えで同じやり方でし続ける。

ある日子どもたちが弾けて崩壊して行く、というその様な状況を、私たちはどれだけ見てきたことでしょうか。

常に学び続けていかないとダメだということは教師ならみんな知っています。
しかしそれを実行するのは難しい。
だから、日々勉強し続ける為の意識と技が必要になってきます。

そのような意識や技の持ちようもひっくるめて、教師の能力は省みられることが必要だと思います。

このブログにもその様な技をずっと書き続けている訳ですが、どんな技がどこに書いてあるのか近頃分かりづらくなってきましたので、そろそろカテゴリの整理や、インデックスとなる静的なページなどを作って行こうと思っています。

 

追記 2014/11/4

この記事は「教師の知的生活ネットワーク」より移転してきたものです。

 
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