Lyustyleの教育ちゃんねる

2015年02月

毎年、3月になるあたりから学級通信を増産していました。
もともと不定期な通信で、時間割やお知らせとは別に出していた勝手気儘な通信です。
不定期とは言っても、週に2回は出していましたから、だいたい年に100数十号は超えていました。

とはいっても、昔は意地でも毎日出す人などがゴロゴロいましたから、大したことはありません。修学旅行の先のホテルでも出していたくらいですから、その意地たるや半端なし。

それでも、私なりによく書きました。ブログなどない時代ですから。

3月になると、書きたいことが何かの曲線のように一気に増えてきて週に2回程度では収まり切らなくなるのです。
一回に2枚くらいは出していましたし、4枚出したこともあります。
修了式の日に6枚出した年もありました。
いい迷惑だったろうなと思います。

子どもがこうしていた、ああしていた、と、なんでそんなに書くことがあるの、というくらい、やはり現場では様々な物語りが並行して進行しています。
それらをあれもこれもキャッチして発信しようと思っていたんです。きっと。

学級通信を書くのが好きでたまりませんでした。
子どもが毎回待ってくれていたんです。別に子供向けに書いてるつもりはなかったんですが。
だから、書くのが好きだったんでしょうね。
ブログ書いて、コメントがついたり、拍手やいいね!をもらえるようなものだったのでしょう。

30年経った今でも、大切にとってくれている人もいます。そういうの聞くと嬉しいですね。

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黒板にめあてを書いている間には、早い子どもと遅い子どもとの間にスピードの差ができ、それが隙間の時間となって速く出来た子どもの気持ちを下げてしまうことがあります。

速く書けた子どもが背筋をピンと立てて終わる子どもをじっと待っている様は、見た目には整然としていいかもしれませんが、必ず綻びが出てきます。

ピンと立てられない子どもたちがざわざわとし始めたり、動き出したりします。

こういうことが何時間も積み重なっていくと、そのうち背筋をピンと伸ばしていた子どもたちまでがだんだんとやらなくなってくることがあります。

これは、学級が乱れていく第一歩です。
速く終わった子どもたちにはそれなりの活躍の場が必要なのです。

あるクラスでは、速く終わった子どもが挙手をし、めあてを声高らかに読み上げます。読み終わった瞬間に他の子どもが挙手をし、今読み上げた子どもが次の子どもを指名します。
こうして、活躍させている間に、教師は子どもの進行状況を見てまわることができます。

また、めあてを教師よりも先に書き終わらせるという指導の工夫もあります。

教師はワンセンテンスごとにめあてを言い、それをわざと少しゆっくりと黒板に書くのです。
こうすると、速い子どもと遅い子どもの差がさほどつきませんし、ほとんどの子どもが教師より速く書き終わり達成感を得ることができます。

また、かんのいい子どもの中には、先に自分でめあてを予想して先回りして書いてしまう子どももいます。そういう子どもも、自分が書いためあてが正しかったかどうかわくわくしながら教師が書いていくものを見つめているので、すきま時間にはなりません。

何をしていいかわからないすきま時間をつくってはいけません。
ちゃんと出来ていた子どもたちまでもがほころび始めるのがこわいのです。

テストを出した後、どうするのか。
給食の準備の時間に何をするのか。
帰りの準備の時間を何分でおわらせるのか。

教室では、何をするにも様々な工夫ができます。
そこにやりがいがあります。

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1年生の授業をみせていただきました。

グループを作って、あれこれと話をしていました。
それぞれの子どもが、お互いの話を聞き、うなずき、そして自分の意見を述べて、おりあいをつけていこうとしていました。

たった1年前、入学してきたときはそれぞれがしたいことをしていっしょうけんめに主張する、すずめやめだかの学校のような小さな子たちでしたが、それが今やまさに2年生になろうかという風格がでてきていました。

1年間の成長というものは本当に大きなものだと思います。

人が一人で成長していてもなかなかこれだけの成長は見られないと思います。
自分以外の他の「個」とぶつかりあい、わかりあい、作りあっていく中で、自分の「個」がだんだんに作り上げられていくのです。

教育の大事さをみるような思いでした。 

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教師は、翌日の授業の準備をするために教材研究を行います。
それをを仕事と捉えるのではなく、「読書」とか「知的のインプット」とか「研究」とかそのような捉え方をすると前向きでより実のあるものになると思いますよという提案です。

事務仕事以外の仕事は全て勉強と捉え、インプットするという意識を持ってやると学びになります。(いや、正確に言ったら事務仕事にも学びの内容は大いにあります。ここでは、話を簡単にするために事務仕事以外としぼって考えています)

多くの教師は無意識でそのようにしており、仕事をしているはずがいつの間にかインプットになっているということが多いと思います。
それを意図的にやることで、こぼれ落ちてしまうことや気づかないで通り過ぎてしまうものを得ることができ、より有効な学習ができるんじゃないでしょうか。

まずは教材研究を仕事と捉えず勉強と捉えるところから始めてみたら、なんだかわくわくします。

ああ、明日の授業の準備をしなくちゃいけないと捉えて教材研究を行うのと、自分の教科指導の技や知識を磨くための重要なインプットの時間と考えて勉強する態度で臨むとではおのずと違いが出てくるはずですよね。

今日は、そんなことを考えていました。
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・・・帰るときには絶対に厳しく叱らなかった。P85 有田和正先生の 「 人を育てる」より。

有田和正先生の「人を育てる」からです。


叱った後、さっと切り替えて笑い話ができるというのはなかなかできることではありません。

子どもを叱っているうちに、どんどんこっちもヒートアップしてきて「なんだー!」と行き着くとこまでいってしまい、子どもたちの方も先生の怒りをしずめるには一体どうしたらいいのかわからなくなる、というような叱り方をした経験を持つ人も多いのではないでしょうか。


必要な指導、叱りをした後、「さっと」切り替えられるようになったのはずいぶんたってからだったように思います。切り替えた時の子どもたちの安堵の表情、ほっとした顔を見ると、「切り替えられてよかったー!」と内心胸をなでおろしていたものです。


若い頃から心がけて、自分のいらいらが高じていく前に「でも、まあ、・・ね。次からはできたらいいな」みたいにさっと切り替える心の技術を磨いていきたいもんだなあと思います。


子どもが安心して帰途につくことができるような学級では、子どもたちの心が育つと思います。


有田和正先生が、「帰るときには絶対に厳しく叱らなかった」というのはすごく大事なことです。しかられてとぼとぼと家路につく子どもの気持ちを考えたら子どもが愛おしくてたまらなくなります。


でも、私は「絶対に」とはいきませんでした。つい放課後に残して厳しく指導することもありました。

でもひとつ心がけていたことがあります。
ひとしきり指導した後は、「受け止めてくれたかい?」と聴いてあげる。これで子どもはほっとした顔になります。
そしてもうひとつは、その子を校門まで送って行ってあげることです。
これだけはしていました。
有田先生ほどの心の器量を持てなかった私にできる精一杯の後始末でした。

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先日、本屋にいって教育書のコーナーをぶらぶらしていたら、ツーウェイが目にはいりました。

20数年前、まだ若い教師だった私やその仲間たちは、よくこの雑誌を買ってきては、なかに書かれていることを教室でやってみたり、人の論文を読んで発奮したり、そして集まってはわいわいと論を戦わせてきました。

年をとってからは、教育ということをもっと土台から考えようと、あらためて教育原理に関する本などを読むことが多くなり、徐々にこの雑誌からは遠ざかってきました。
それでも、年に一度位は買ってきて、今の若い先生たちの学びにまけないようにしようとしてきました。

そうして、先日、昨年の秋以来久しぶりに手にとって見たのです。
そうしたら「終刊」の文字が・・・

ああ、一時代が終わるのだな、と思いました。
でも、これは幕が引かれるのではなく、次のステップへ向けての準備なのですね。

私もまだまだ最前線で学ぶ人たちといっしょに学んで行きたいと思います。
 
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