2016年07月

授業研究や、研究授業の旅に配られる指導案。
授業前に熟読しておいてメモを入れておき、授業中は気づきや改善点、疑問などを書き込んで協議会で生かします。


その指導案、協議会が終わったらファイルに綴じ混んで,そのまま放置していませんか。だとしたらとてももったいないですよ。


メモが書き込まれた指導案は、自分の授業への気づきの宝庫なのです。


私の教育観をもとに、もてる授業技術や教科についての知識、これまでの経験を総動員してできあがった、現時点での私の教育における最高の知的生産物です。

それは、自分の教育観の醸成のために蓄積される価値のあるもので、指導案に書かれた学んだことや気づきのメモを書きぬいてためておくことで、自分の授業力向上に役立つ貴重なデータベースとなり得るものです。


しかし、私がそのことに気づいたのは教師になってからもうずいぶん後のことでした。

ずいぶん長いこと、私は自分の指導案は大事にとっておいても、他の教師の指導案はただファイルに綴じておくだけ。時には年度が変わったり学校を異動したりするときに捨ててしまったことさえあります。


なんて勿体無いことをしてしまったのかなと思います。


中には異校種勤務のときの、今の勤務校では見ることのできない貴重な指導案も含まれています。


それに気づいてからは、私は、指導案を明確に授業力向上データベースのソースであると位置づけ、振り返りによって気づきをや学びを書き出し、蓄積するようにしています。


ただファイルしてとっておくだけでもいいかもしれませんが、振り返ることと、自分のフィルターを通した気づき、学びを取り出して整理しておくことが大事だと考えています。その方が意識に残りやすいし、必要なときに取り出しやすいからです。


幸運なことに今でも残っている昔の指導案などを,ときには眺め直してみて、10数年前の、ときには20年以上も前の自分の書き込んでいる気づきから、今の自分の成長を確かめてみるのもいいなと思っています。

18
福岡市美術館では,ゴジラ展が始まりました。見に行かなきゃね。

 

きょう,「知的生活ネットワーク」にこんな記事を書きました。

  どのようにしたら「量満ちてこそ質が高まる」を起こせるのか | 知的生活ネットワーク

量の積み重ねが質に高まるということはよく言われますが,ただたくさんやるだけではだめで,一つ一つの完成度を上げ,さらに積み重ねた了を捨て去り(とらわれず)新しいことに挑戦していくことが大事,という内容です。

教師の授業にそのままあてはまります。

私たち教師は年間1000時間近い授業を行います。

  飛行時間1000時間のパイロット、授業時間1000時間の教師 | 知的生活ネットワーク

この1000時間を単にこなしていたって,授業技術は高まりません。
教師を10年やって,いくら「授業時間10000時間の教師です」と,パイロットのように言っても,そく授業技術が高い教師ですということにはならないのです。
教師の授業においては,量は質に簡単には転換しません。

ですから,1時間1時間の授業の完成度を上げる努力をし,
それで成功したから次も・・・と思わずもっと新しいやり方を工夫しよう,
ということを続けていかなければならないんです。

1日6時間分の授業の準備なんて,今の学校現場では夢のまた夢です。
5時近くまで会議があって,勤務時間終了後にならないと,授業の準備ができないという現実があります。
そうかと思うと,調査やレポートをかかなきゃなりません。
書いていると,保護者からクレームの電話がなります。
対応しているうちに,身も心もぐだぐだになってしまいます。

・・・が,それでも自分に可能な限りやる,ということをしないかぎり,授業の腕は上がらない。
それは悲しいほど現実。

可能な限りでいいのです。
ほんのちょっとでも,前進したいものです。

わたしも そうしていきます。
いっしょにがんばりましょう。

farmer2016


 

今朝,新聞に「夏休みを非行の入り口にしない」という政府広報が載っていました。

本校でも,ゴールデンウィークの前,家庭訪問で早く帰る日が続く時期には,
特別に生徒指導を行い,家庭にも注意喚起するようにしていました。

両親が共働きの過程では,子どもだけでいる時間が多くなり,そこがたまり場になることがあります。
ついたばこに手を伸ばしてみたり,マッチをすってみたくなったりなど,普段とは違った雰囲気の中では,普段とは違ったことをしてみたくなるもの。
これは,大人も同じですよね。

だから,子供の手の届くところに,お金や火遊び,喫煙などにつながるものをおかないことなど,ご家庭に伝えておく必要があるのです。
特に火遊びの場合,火災にしてしまったら,保護者の管理責任が問われ,大変な賠償をせまられることがあります。

 

昨日と同じく声に出して読みたい教育者の名言50からです。
 

板倉聖宜氏は仮設実験授業で有名ですね。

「本当に自分の独創性を伸ばしたいなら,優れた他人の独創を模倣するのが一番」

「子どもは一流の科学者の模倣を,教師は酢触れた教師の模倣をするのが良いだろう」

味わい深い言葉です。
 

「人のまねをしてはいけません」と私たちはよくいいますけど,でもまず真似をして最初のハードルを越えるところから達成感がうまれるし,やりかたはわかるし,なによりできるようになる。いいところばかりです。


私はよく子どもたちが絵を描くときに困っていると,「真似をしてご覧。まねさせてね,と言ってさせてもらう真似はいいんだよ」と言います。
真似はだめだという言葉のうらには,アイデアのパクリはだめだ,という倫理観があると思うのですが,「真似させて」と堂々と宣言して行う真似はパクリではありません。


また,「真似させてもらうとき,少しだけ変えて真似してごらん」とも言います。そのままではなく,そこにほんのちょっぴり自分の工夫を入れる。


このことで,一気にタガが外れて,水が怒涛のように放流されるように一気に表現が進むことがよくあります。


もともと「学ぶ」ということばは「まねぶ」からきているともいいます。


あるミュージシャンが,「音楽なんて昔から誰かの曲のまねでできてる」と言いましたが,それもそうでしょう。まねることから新しいものが生まれる。


ラファエロ工房とか,ダビンチ工房など,昔は徒弟が親方の技を真似しながら身に着けていったわけで,そのうちその技が自分のものになったところで自分なりのものが生まれ始めるのです。


独創的であろう,そのためには人のまねはしないと決めて独創をひねりだせるのは天才だけ。


だから,自分だけのものをつくるために真似をしたらいいんです。


オリジナルに敬意を払ったうえで。

gakugeikai
 

 「だれも学べていないのに教えたというのなら,だれも買っていないのに売ったというのと同じだ」 

今月の総合教育技術の付録についていた「声に出して読みたい教育者の名言50」という冊子から,ジョン・デューイの言葉です。


ぱらぱらとめくっているうちにピンと目に留まりました。


これって,結構起きていることじゃないのかな・・・

教育は,教える教師と学ぶ教師との関係で生まれてきます。私たちは,子どもがうまく学べるように一生懸命に準備をします。そして,発問の一つ一つに磨きをかけて授業に臨むわけです。


ところが年に1000時間ほどある授業時間すべてをそのようにしたいと思ってもなかなかできるものではありません。

時には,カリキュラムを進めることを優先してしまうこともあります。

そう,ちょうど学期末の今のように・・・。


そのとき私たちが言う言葉

「ここ,勉強したよね」
hai
 


確かに今までそのページを勉強していたので,子どもたちは「はーい!」と元気に返事をします。

これで安心。


ところが,子どもが学べたのか?と問うと必ずしもそうではありません。そうですよね。


まさに,実際には学べていないのに,教えたということにして先へ進んでしまっているのです。


何をもって「学んだ」というのか,ということについてはここでは述べませんが,「今日は,本当に子どもたちは学べたのですか?」という問に,直感的,経験的に「はっ・・・教えたつもりだが学べたとは言えない・・・」ということがあるなら,その思いを大事にして次の授業に臨みたいものだと思います。
 

むかーし,まだ私が若いころ,研究サークルで劇をすることになりました。
ちょっとした寸劇程度のものではなく,それなりの指導者をお迎えし,市民センターのホールを借りて上演するかなり気合の入ったものでした。
そこで,私はある役をしたのですが,何せしろうと。見よう見まねで必死にセリフをおぼで演技をしました。
指導者の方はギロリをした目で私の演技を見ています。
身がすくむ思いです。
こわかったのですが,私は意を決して自分なりの演技の工夫をしました。どんな工夫だったのかもう20数年も前の話なので忘れてしまいましたが,自分なりに考えた演技の工夫であったことは確かで,それを実際にやるにはすごい勇気が言ったことを覚えています。

しかし,やりおえた後,自分でも「しまった」と思いました。今なら「すべった・・」という言葉が頭をうずまいていたかもしれません。うまくいかなかったのです。完全に失敗でした。
指導者の目がさらに大きく見開かれ,ギロリギロリと私をみながら歩いて見えます。
心の中で,
(わあ,すみません,すみません・・・いわれたとおりにしますから,おこらないでください・・・)
そう願いながら,じっとうつむいていました。
するとその方がいったのです。

「よい,工夫でした。○○したかったんですね。それなら,このようにしたほうがもっとよくなるよ。」

どうでしょう。その時の私の気持ちを共感してもらえたらうれしいのですが。
私は心からほっとしたのです。
そして,演技の工夫をすることへの勇気が湧いてきました。その後,自分で一生懸命工夫しながら,公演当日は自分で満足できる演技をすることができたのでした。

もし,私がその指導者の方に「なんだね。その演技は」と言われていたらと思うとぞっとします。
24歳の私は,こわくてその後自分から表現の工夫をするということをやめたでしょう。
そして言われたとおりにするロボットになっていたと思います。
まさにアドラーのいう「勇気くじき」となっていたはずです。

このことは私の教師としての生き方にとってわすれられない出来事になりました。
子どもが自ら工夫したことについては,決してけなしたりしかったりしてはならない。
その工夫を認めたうえで,さらにこうしたら,という助言を与えること。

図画工作科の研究をする教師として歩みだそうとしていた私は,子どもの絵や工作の表現の場でもかたくそれを守り続けてきました。
子どもが絵を描いていると,時には教師が「ここにこの色を塗ったらぐっとよくなるな」と思うこととまったく違う色をぬっていることがあります。
そんなとき,
「なんで,こんな色でぬったんだ」
とけなしたらどうなるでしょう。
子どもは一生懸命に考えてその色を選んでぬったのです。
それをそんな風に言われたら,「ごめんなさい。言われた色を塗ります。どの色を塗ったらいいんですか?」
となります。
こうなったらもう「情操を豊かにする」ことを教科目標にしている図画工作科の授業ではなくなってしまいます。

そんな言葉を決して子どもにかけない。

そうして,対話をしながら,その子が考えているよりよいイメージに向かって支援するというスタイルを守ってきました。

子どもが,「失敗した・・なんでこんな色になったんだ・・」と思っているなら,修正の方法を教えました。
子どもが,その色を自分の渾身の工夫からつけたものなら,そのことを認め,その子が必要とするならさらに良い方法を教えてきました。

その子どもの工夫,考えに勇気を与える。
これはとても大切なことだと思い続けています。
 
IMG_0428
(県の展覧会の写真 本文とは関係ありません)



↑このページのトップヘ