Lyustyleの教育ちゃんねる

カテゴリ: このブログについて

むかーし,まだ私が若いころ,研究サークルで劇をすることになりました。
ちょっとした寸劇程度のものではなく,それなりの指導者をお迎えし,市民センターのホールを借りて上演するかなり気合の入ったものでした。
そこで,私はある役をしたのですが,何せしろうと。見よう見まねで必死にセリフをおぼで演技をしました。
指導者の方はギロリをした目で私の演技を見ています。
身がすくむ思いです。
こわかったのですが,私は意を決して自分なりの演技の工夫をしました。どんな工夫だったのかもう20数年も前の話なので忘れてしまいましたが,自分なりに考えた演技の工夫であったことは確かで,それを実際にやるにはすごい勇気が言ったことを覚えています。

しかし,やりおえた後,自分でも「しまった」と思いました。今なら「すべった・・」という言葉が頭をうずまいていたかもしれません。うまくいかなかったのです。完全に失敗でした。
指導者の目がさらに大きく見開かれ,ギロリギロリと私をみながら歩いて見えます。
心の中で,
(わあ,すみません,すみません・・・いわれたとおりにしますから,おこらないでください・・・)
そう願いながら,じっとうつむいていました。
するとその方がいったのです。

「よい,工夫でした。○○したかったんですね。それなら,このようにしたほうがもっとよくなるよ。」

どうでしょう。その時の私の気持ちを共感してもらえたらうれしいのですが。
私は心からほっとしたのです。
そして,演技の工夫をすることへの勇気が湧いてきました。その後,自分で一生懸命工夫しながら,公演当日は自分で満足できる演技をすることができたのでした。

もし,私がその指導者の方に「なんだね。その演技は」と言われていたらと思うとぞっとします。
24歳の私は,こわくてその後自分から表現の工夫をするということをやめたでしょう。
そして言われたとおりにするロボットになっていたと思います。
まさにアドラーのいう「勇気くじき」となっていたはずです。

このことは私の教師としての生き方にとってわすれられない出来事になりました。
子どもが自ら工夫したことについては,決してけなしたりしかったりしてはならない。
その工夫を認めたうえで,さらにこうしたら,という助言を与えること。

図画工作科の研究をする教師として歩みだそうとしていた私は,子どもの絵や工作の表現の場でもかたくそれを守り続けてきました。
子どもが絵を描いていると,時には教師が「ここにこの色を塗ったらぐっとよくなるな」と思うこととまったく違う色をぬっていることがあります。
そんなとき,
「なんで,こんな色でぬったんだ」
とけなしたらどうなるでしょう。
子どもは一生懸命に考えてその色を選んでぬったのです。
それをそんな風に言われたら,「ごめんなさい。言われた色を塗ります。どの色を塗ったらいいんですか?」
となります。
こうなったらもう「情操を豊かにする」ことを教科目標にしている図画工作科の授業ではなくなってしまいます。

そんな言葉を決して子どもにかけない。

そうして,対話をしながら,その子が考えているよりよいイメージに向かって支援するというスタイルを守ってきました。

子どもが,「失敗した・・なんでこんな色になったんだ・・」と思っているなら,修正の方法を教えました。
子どもが,その色を自分の渾身の工夫からつけたものなら,そのことを認め,その子が必要とするならさらに良い方法を教えてきました。

その子どもの工夫,考えに勇気を与える。
これはとても大切なことだと思い続けています。
 
IMG_0428
(県の展覧会の写真 本文とは関係ありません)



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僕は担任を持っていないので、日々の授業実践ノートはかけない。つまり実践家としてのブログにはならない。
かといって、昔はこうだったと、過去の自分の成果にすがって、高所からご高説を垂れるような記事は書きたくない。
第一線から退くと勢いそのような記事を書いてしまいそうなので注意しておかなければならない。
でも、過去の実践を書くことで若い先生ちとってなんらなのお役に立てるかもしれないので、そういった価値を持った記事は書いていっても良いだろうと思う。

ここで、一つの指針を得た。
過去の実践から、お役に立てそうなものを選んで掲載するブログだ。
または、参観させていただいた授業や、本などで紹介されていて良さそうなものなどもいいなと思う。
 

次に、考えるのは、教師は学び続けるということ。
第一線を退いたとはいえ、私は教師であることに変わりはないので、退職するまでは職能を高めるための学びは続けていかなければならない。
ここで学びの記録を掲載していくということが考えられる。
学ぶということの良さは、それによってつながりが生まれるということだから、ここに私の学びを記録しておくことでなんらかのつながりが生まれ、学び合いが始まるかもしれない。そうしたらさらに学びが深まったり広がったりするだろう。

二つ目の指針は、
学びの記録をするブログということだ。

次に考えたのは、世の中の考えに口を出したいことがよくあるな、ということだ。
つまり、テレビや本、会話などの中で、コウスルベキダというような話を見たり聞いたり読んだりするにつけ、いや、それは子供の発達から見ると良くないなどと言いたくなることがある。
そういうことを書いてみたらどうだろう。

例えば、小さな子どもが顔から直接手や足が出るお化けみたいな人間を描いている、といって嘆いている親がいたとする。
いや、それでいいんじゃないかと。
むしろそれが正常な心理発達の姿であって、それを心から褒め、全力で応援するのが親の仕事なんだと。
そんな子どもに、まだまだ顔と手足しか認知できない発達段階の子どもに、やれ首がないとか、胴体はどうしたとからお化けみたいだ、などということを言って「正常な」絵を描かせたいと思うことは、子どもの発達をねじ曲げる行為であって、何が何か分からないまま親が喜ぶようなことをしようという縮こまった子どもを育てることになってしまう。
そんなことを口出ししたいとおもうのだ。
そして、もしかしたらその口出しが 「 へえー」とか、「 目から鱗でした」などということにもなるかもしれない。

ということで、
指針3は、「 あれ?ちょっと違うぞ」というようなことには、子どもの心理発達や教育上の考えから、口出しをするブログということにしよう。

さらに色々と考える。
 
教師は現場で実際の子どもとともに必死になってその成長のために取り組んでいる。
実物の子どもを目にしたとき、費用対効果など、考えてはいられない。どんなに経済的に分が悪かろうが、お構いなしに全力であたり、それゆえにそういうことを理解してもらえない様々な方面からの攻撃の前に倒れてしまうことがある。
また、新聞や議会など、モットコウスベキダという正しい理念から出てくるさまざまな難題に対処していかねばならない。
例えば、授業数をもっと増やせ、など。
「正しい理念」の人たちは、量を増やせば学力が上がると思っているので、増やした分の研究をする時間をこれ以上持てない教師の事などお構いなしだ。それでも教師は、なんとかやっていく。でも、絶対時間は少なくなるので、授業の質は間違いなく落ちる。
これまでの日本はノーベル賞を輩出する教育をしてきたが、今後質の落ちた授業を繰り返す中でそのような水準を維持できるかどうかはわからない。
今はすでに、じっくり考えさせ、何度も心ゆくまでやり直させ、その結果子どもの腑に落ちる、ような学びは学校では行えなくなっている。

そんな、教育の世界の事情などはどこかに需要はないだろうか、というようなことを考えるのである。

そこで第4の指針。
教師と教育の世界をもっと知ってもらうブログ

だいたいこんなことを考えた。

まとめ

  • 過去の実践から、お役に立てそうなものを選んで掲載するブログ
  • 学びの記録をするブログ
  • 子どもの心理発達や教育上の考えから、口出しをするブログ
  •  教師と教育の世界をもっと知ってもらうブログ
 
今後、このブログはこの4つの視点からカテゴリーを作って書いていけたらと思っています。

長く続けたいなあと思います。


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長いこと「教師の知的生活ネットワーク」というブログを運営してきました。
 
多忙な教師生活の中で、事務や教材研究にあけくれるだけの毎日ではなく、なんとかさまざまな工夫をしながら知的生活をおくるための時間を確保していこうという、いわゆるライフハック的な色彩の強いブログです。

だから、教育一般のことについては書かない、ということにしてきました。

しかし、それでも「教師の」とタイトルにあるのに、教育関係の記事がほとんどない状況に、「これでいいのかなあ」という気持ちも積もってきました。

そこで、教育関係の記事のみ切り分けてこちらで書いていこうと思います。

たいしたことが書けるわけではありませんが、教育現場での教師の仕事や、教育に関するニュース、教育実践や自分の勉強などについて書いていくつもりです。

また、軌道に乗ってきたら「教師の知的生活ネットワーク」の中に書いている教育に関する記事もこちらにすこしずつ移していくつもりです。

できたら長く続けていきたいなと思っています。


 
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