Lyustyleの教育ちゃんねる

カテゴリ: 若い教師のみなさんへの手紙

授業を見て学ぶ機会は沢山あります。
研究授業、自主授業研究など。

その中で、「お!すごいな。子どもが一人残らず集中している」と思える授業に出会います。

そんな授業を行う先生は、決まって子どもの発表やつぶやきを、一生懸命に聞いています。
決して、自分の立てた授業の流れに沿わせるように子どもの言葉を改変しようと思って聞いているのではなく、子どものいうことそのものを受け止めているのです。

そこから、授業の組み立てをし直すので、リアルタイムに授業案が変わって行きます。当然指導案の通りには行きません。

でも、そういう授業は生きています。子どもたちはその授業の中で活かされていますので、安心して授業に没入できるのでしょう。

学んだことを言葉にした途端、子どもが自分のこと思い通りのことを言ってくれなかった教師から苦い顔をされることを繰り返されると、子どもは教師の思うようにしようとするようになるか、勉強しているふりをするようになるか、もっと直接的には、ざわざわし始めるかです。
とても、主体的で対話的な深い学びどころではありません。

立てた計画はあくまでも仮説ですから、その検証を使命とする授業でなければ、その場でどんどん変えていけばいいのです。

でも、これはこれで、修行が必要です。
今、この時にある、ピンポイントでの子どもの姿を丸ごと受け止める微視的な見方は、授業全体を俯瞰し、目標の達成まで引っ張っていく巨視的な見方と常につながっていなければなりません。

そして、それは次々に更新されていくのです。

まさに神業。

しかし、若い頃から修行すればその二つの起点はリアルタイムにリンクできるようになります。

そのための第一歩は、子どもの言葉を丸ごと受け止めることではないでしょうか。

まず、微視的に受け止める力を身につける。最初はそこに振り回されたり、瞑想したりすることもありますが、恐れないでどんどんリアルタイムに流れを変えて欲しいと思います。

10年もすると、リンクできるようになりますので。

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近頃はあまり見なくなってきましたけど、以前はよく黒板にラミネートした資料を張っている授業を見ました。

せっかく作った資料だから、大事にしたい、見栄えよくしたいという気持ちからだと思います。

でも、これやられると、教室の前面、端っこの席の子どもは資料の表面が光って見えないんですよ。
子どもは何も言わずに黙っているから、先生は気づかないんですよね。

もし、ラミネートした資料を黒板に貼っている先生がおられたらどうぞ指摘してあげてください。
もしくは、端っこから見えるかどうな確認して見てください。
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 授業の終わりにまとめをしますね。
子どもがこの授業でわかったこと、できるようになったことを自分なりに振り返らせて終わります。

落語でいうなら「下げ」と言ったところでしょう。トントンと終わって「お後がよろしいようで」とやらなければなりません。

ところが、これまでの緊張が一気に解けてしまうようなまとめをしてしまう時があります。
子どもがすでによく学んでいるのに、また同じことをまとめで1つ1つ確認してしまうときです。

すでにわかっていることをいちからなぞられる。ひとえに、教師に自信がないからです。

しかし、もうわかった子どもにとっては、同じことをなぞられるよりも、本当にできるかどうか試したがったり、自分なりにまとめたかったりします。

受け身がちな子どもは、それでお客さんになってしまいます。集中など一気に消え、先生の話が終わるのをひたすら待ちます。

満足するのは先生だけ。子どもの気持ちはもうどこかに行ってしまってます。

落語の下げのように、おわりはトントンと気持ちよくおわりたいものですよね。


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 2学期が始まったところも多いことでしょう。

 ほんの数年前までこの時期はまだ夏休みだったのに、学力向上の名の下に、学力向上のための準備の時間として貴重な8月の最終週が授業時間に変わりました。
 時間数さえ増やせば子どもが賢くなるという、いつもの考えです。

 ぼやいても始まらないので、私たちは前に進まなければなりません。
 準備時間を減らされても、タイムカードを投入するから早く帰る意識を持てと言われても、目の前に子どもがいるのですから。

 そこで、まずは、宿題をできるだけ早く目の前から無くしましょう。
 全員の分の宿題を見るのは大変ですが、できれば今週中に返してしまいましょう。
 工作など、いつまでも飾っておくと、せっかくの作品に埃が積もったり、色あせたり、まずい場合は友達が触って壊れてしまったりします。

 延ばしてもせいぜい参観日の展示まで。

 私はなかなか線が引けない人間だったので、まごまごしているうちにとうとう返す時期を逸してしまい、何と2学期いっぱい持っていたことがあります。
 子どもも、そんなもの今更返してもらっても、と困惑していました。
 できるだけみんなに見せてやろう、この作品を活躍させてやろうと思う気持ちが、完全に裏目に出てしまいました。
 ですから、それからは、作品が綺麗なうちに返すようにして来ました。

 恥ずかしい失敗です。

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以前,「事務仕事以外はみんな勉強」というタイトルの記事を書きました。

改めてこのタイトル見た時,最初はびっくりしました。
「いったい何言ってるんだか・・・」
私は,てっきり,事務仕事以外は全部勉強しなさい,という記事を書いたのかと驚いたんです。

読んでみると違っていました。

私たちの仕事は,夜中までかかることが多いのですが,それらは,大きく分けて事務仕事と教材研究とに別れます。
この教材研究の部分を,「勉強」と考えてインプットとして行うといいよ,という記事でした。

明日の授業の準備のために,私たちは教材研究をするのですが,忙しくなってくると,ともするとそれが事務化してしまい,「終わった,できた」とこなしたことで満足してしまいがちです。

そして,私たちが大事にしておきたい,知的な土台作りとしての読書などをする時間,知的生活としての時間をさも終わったかのように錯覚してしまいがちなのです。

本当は,終わった後に,ゆったりと読書などをしたいのに,もうそのためのリソースがのこっていません。
疲れもあるでしょう。

だから,せめて「こなす仕事」「事務」として明日の教材研究をするのではなく,「学ぶ」という視点で行うことで,それが知的な時間に転換されるのではないでしょうか。
その時間は,きっと教師としての大きな土台になっていくのだと思います。

「やらなきゃならない事務仕事」ではなく
「自分を成長させる勉強」ととらえて,インプットに転換する時間にしましょう。

そんな記事でした。
そして,私もそのようにしています。

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しかし,自分で書いた文に驚いていったいどうするんだ,という話ですが・・
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通信票の初見は,何年たっても大仕事。

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私は,とても一晩でぱっぱとかけるタイプではなく,システム手帳の一人一人のカルテに書き溜めたノートとにらめっこしながら何日もかけて書くタイプでした。

80年代終わりごろからパソコンが個人の手に入るようになってからは,「所見君」みたいな名前のソフトが発売されないかなーと思っていました。
必要事項をいくつか入力すると,最後に一つの所見として出力してくれるというような・・・

後に,PC-VANに代表されるパソコン通信に,そのものずばり「所見君」という名前のオンラインソフトがアップされてびっくりしました。
さっそく大喜びしてダウンロードして使ってみましたが,あまりの手数の多さにやめてしまいました。
こんなんなら,手で書いたほうが早いや,というわけですね。

結局手早く書くための,どの子にも使えるテンプレートというものはないのです。

でも,以下の記事で紹介しているテンプレートなら使えると思いますよ。

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dokusyo

教師の読書には以下の3通りがあると考えています。


  • おいかける読書
  • 深める読書
  • 豊かにする読書

おいかける読書とは

時事,教育界のトレンドをおいかけることです。


今の教育の動向を知っていなければなりません。それは単にニュースとして知っているだけでなくある程度詳しく知っていたいものです。


そのためには、教育雑誌を1冊とっておくことが望ましいと考えます。


自分の属する学年や教科について総合的に書かれた雑誌の他に、できれば総合的な教育雑誌に目を通しておくと、各県や市の教育委員会からおりてくる様々な教育施策についての理解が深まりますし、自分の授業や学級経営にすばやく反映させていくこともできます。


このように、教育に関する動向についての知識を得る読書のことを「おいかける読書」ととらえています。

深める読書

これは、自分の専門とする教育に関する分野の識見について、より詳しく学ぶ読書です。


教科や総合、道徳などの領域に関する専門性


学び合いやアクティブラーニングなど、教育の質をより高める現代の教育のキーワードになっている分野についての専門性


心理学や特別支援など、現代教育の課題となっていることへの専門性



そのような、「私の拠って立つある分野」を自分の専門分野と見極め、ひたすらそのことについて書かれた書物を読み深めて行くことです。


それを「深める読書」ととらえています。

豊かにする読書~「明日の授業には関係の無い」本

教師は、子どもの前に立つ以上、人にものを教える者としての人間性が必要です。


いつの時代であっても、教師は労働者であると同時に「聖職である」という気構えは持っている必要があります。

そこから醸し出される豊かな人間性に子どもはこの人から学ぶのだといううれしさと信頼を持ってくれるのだと思うのです。


そのために、古今の様々な本に触れて、自分のものの見方、感じ方を広げ深める読書をしたい者だと思います。


この読書には、昔の教師達の書いた教育上の古典があげられます。自分の教育観を深めてくれます。


また、現代・近代文学、古典、歴史(文化史、科学史、数学史なども含めて)など、「明日の授業には関係の無い」本が、自分の土台を形作ってくれます。


ぜひ、そのような自分の教師としての土台を作ってくれる豊かな読書をしていきたいなと思います。

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昨日の記事の続編です。


子どもを間違って叱ってしまうことはありませんか?


私にも何度もありました。いや,あります。


授業中にこそこそ話をしていたので叱ったら,実は,隣の子どもが困っているのを一生懸命に助けようとしていたこと。


授業中にふざけていると思ってしかったら,実際はふざけていたのは隣の子どもで,叱った子どもは一生懸命に授業をうけていたこと。


分かった瞬間,なんども子どもたちに頭を下げました。

心から謝りました。


そしてそれは何度も繰り返されました。


私はいったん子どもの姿を受け入れて,そこから指導を始めるということがへたくそだったのです。



その中で忘れられないことがあります。

3年生の運動会のダンスの指導の時です。


「腕を伸ばしなさい」と言っても,だらんとしている女の子がいました。

なんど言ってもだらん・・・


私はその子どもがやる気がないのだと思い,つかつかとその子供のところに歩み寄り,腕をとって,肘をまっすぐにし,「これ!まっすぐってこうやるの!いっしょうけんめいにやりなさい!」と叱ってしまいました。


その子は,それ以後腕をちゃんと伸ばしていました。


私は,叱ってよかったと思いました。


確かに,腕をとって,肘に手を当て,まっすぐに伸ばしてやることで「手を伸ばす」という感覚を持たせる上では悪い指導ではありません。


しかし,意図が違います。


私はやる気がない子どもに芯を入れるようなつもりでひじをまっすぐにしたのです。



しかしそれは大間違いでした。こどもはやる気がないんじゃなかったんです。



6年生になったとき,その子どもをまた担任しました。


ある日,給食をいっしょに食べながら談笑しているとき,その子は何気なく3年前の体育で私が叱ったことを話し始めました。


「まっすぐ,というのがどんなことかわからなかったの。私はまっすぐしているつもりだったけど,先生が私の腕をとってのばしたから,それで初めて私の腕は曲がっていたんだと思った。」


というのです。

やる気がないんじゃなかったのです。


「まっすぐ」に伸ばした腕の状態が自分の感覚としてわからなかったのです。


本人は頭では伸ばしているつもりだったのですが,実際には曲がっていたのだというわけです。


私はそれをやる気がないのだと勘違いし叱ってしまった。

完全な思い込みです。

私は心から頭を下げました。


その子はなんで私が謝っているのかよくわからないようでした。


腕を伸ばすとはこういうことだということを教えてくれたのだと純粋に思っていたようです。


私は,過去どれだけこのような子どもたちから助けられてきたことでしょうか。



その後も,私は凝りもせず,思い込みで子供を叱ってしまい,しまった!と思うことが何度もありました。

私は,経験から何も学べなかったのです。


結局,子どもの姿をそのまままず受け入れるということを意識して行うようになったのは,その後5年を待たなければなりませんでした。


すなわち,「傾聴」「カウンセリング」「コーチング」を勉強し始めてからの事でした。

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  • 何度言っても忘れ物をする
  • 必ずウソをつく
  • そこまで言わなくてもいいのにということを言ってトラブルになる
  • 叱られても叱られても懲りずに廊下を走る。そして怪我をする。
  • 挙手しない。さしても蚊の鳴くような声しか出さない。
  • ダンスの時、腕をまっすぐに上げない。
  • あいさつをしても,だまってとおりすぎる・・・・

こういうことが毎日のように起こります。

教師は叱っても話しても諭しても注意をしても何にも変わらず、疲弊して行く。

または、力で押さえつけ、そのうち学級が爆発する。


そういうようなことを乗り越え乗り越え、私たちは日々を壮絶に暮らしています。


そこで「どうして言っても言ってもよくならないの」と考えるフレームを、一人一人の子供に事情がある、というフレームに転換すると、ずいぶん見える世界が変わって来ます。

その子どもの行動、言葉を生んでいるものに目がいくようになるのです。

その余裕ができるのです。

んとね


実際、私もそう考えるようになって気持ちが楽になったばかりか、根源的なその子どもの行動を生んでいた障壁に気づいて取り除くことで改善した経験もあります。


まずは、子どもを自分の持つラベルに当てはめるのではなく、その子どものそのままを受け止め、「ああ、こんなことを言っているんだな」と思うことにしましょう。

何とかしなくては、とあまり思いつめないことです。

目の前のことをつつきすぎると、帰って解決が遠のくことがよくあります。


まずは受け入れる


そこから開く世界もあります。


「まず受け入れよう」 

「子どもが何か頼んできた離,ルールを破るようなことをしていた時に,いう知度その姿を受けれてみ見る。そうしてよく話を聞いてみる。「みんな事情があるのだ」そういうこうどうのしかたにいつのまにか変わっていました」


「まず受け入れてみるという感覚は,傾聴,カウンセリングという領域に私の目を開かせることになり,日々の教育の中で生かすように変わっていき,今の仕事につながっています。」


私のシドニー派遣教員日記より

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jugyou


 現在,「1年生学級通信」のシリーズを投稿しています。
 すでに12記事投稿しました
 この年の通信は140号くらいあるので,どれを投稿したらいいのか検討しながら投稿しています。

 今から20数年前,私がまだ33歳の時の学級通信です。

 その年,私は初めて1年生を受け持たせてもらいました。 
 私たちの頃は,若い男性はなかなか1年生を持たせてもらえませんでした。しっかり修行を積んで,教師としての実量をつけてからでないと,もたせてもらえなかったのです。
 1年生を担任するということは,それほど重要なことだったのです。

 現に,私は,初めて1年担任をしたその年,子どものおじいさまという方からお手紙をいただいたことがあります。むかし校長先生をされていたという,その方からの手紙には,はっきりと「1年生担任を任せれたということは,それだけの技量を持った教師とみなされたということですね。本当におめでとうござまいます。」と書かれていました。

 そういう時代でしたから,私もようやく認めてもらえたのだと素直に喜びました。そして,その感動と責任感から,ほぼ毎日子どもたちの様子を通信し続けたのでした。

 この通信には,1年生という発達段階にある人たちがどのような存在であるのかを日々学び,そしてどのように育てていったらいいのか,ということについて考え続け,真摯に取り組んだあとがつづられています。
 初めて1年生担任をされる方の参考になればと思って,手がきの通信を,少しずつ入力して投稿しています。

 ところで,この通信はほとんど「常体」で書かれています。

 保護者を読み手として書かれてはいますが,自分の教育実践の記録としての通信でもあったので,保護者への連絡としての箇所以外は,すべて「常体」です。

 教育実践記録としての学級通信。

 若い教師の方は,あまり見たことがないかもしれません。
 おたよりが「当然のサービス」になってしまった現代において,それは保護者への連絡や周知のために行うものです。

 ところが,過去,学級通信がまだ「当然のサービス」ではなかった時代には,今のブログのように書きたいから書く,という学級通信の文化があったのです。

 日付を見られて不思議に思うかもしれません。
 同じ日付の通信が何枚もあるのです。そのことに示されるように、一回一枚と決めて書いて入るわけでもありません。私は8枚書いたことがあります。
 この年は、入学前に子どものことをあれこれ想像しながらすでに4枚書き、入学式で配りました。

 そんなに書いてどうするのだ、いったいなんでそんなに書くのだ、と思われそうですが、そこでは,教育実践が語られていたのです。

 「ごんぎつね授業全記録」のような学級通信もありました。
 子どもが描いた毎日の絵手紙の余白にさまざまなことを書き込んだ通信もありました。
 新聞のように,レイアウトに凝りまくった通信もありました。
 連絡だけではなかったのです。さまざまな学級通信の形がありました。

 まさに「学級通信文化」とでも呼べるような文化があったのです。

 私も1983年に教師になったときから,そのような通信を書いてきました。

 ところどころ,現物のコピーを挿入しています。
 ワープロでの通信が多い中,手書きの通信もなかなかよいものだと思っていただけるのではないでしょうか。

 記事の投稿は,ようやく5月中旬に差し掛かったところです。
 これから,この年の1年間の通信を,投稿していきます。

 
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