カテゴリ: 教育現場の事情

 2018年1月26日の西日本新聞朝刊に、「小中免許同時取得ダメ?~福教大が養成課程改革」という記事が1面トップに出ていました。

 「小学校重視、学生は不満も」というサブタイトルがあります。
 どちらの免許も取れると思っていた学生が、それができないと分かって困っていたり、課程を変えたいと相談したりする事例が起こっているとのことです。
 「学生には十分周知されておらず」と記事にはあります
 しかし学校は前年度に高校を100校以上回って説明してきたのだそうです。
 それを「言葉を濁した」と記者は書いています。
 福教大のやり方を好ましくないものと感じ取らせるような印象です。
 
 よく読んでみると、「小学校教育のスペシャリストを育てる」ためのカリキュラム改革であり、「多く免許を取ればいいというわけではない。小学校教員の即戦力を育てる改革に変えた」と宮内健二副学長は言っています。
 この改革のために重視したのは、小学校現場からの声。
 「教科の知識よりも、クラスをまとめる力、地域や保護者との連携力を持つ先生」が現場から求められているということです。
 つまり、あれもこれもととれる免許をたくさん取ってくるよりも、小学校一本に絞って「腹をくくって」学んだ先生を送ってくれという現場からの要請だといえます。
 
 これはその通りだと思います。
 私も高校まで免許を持っていますが、中学校免許も高校免許も使ったことがありません。
 異校種交流の制度があり、中学校や小学校間で人事異動ができるようにすることで、小中連携を高めようとしているのですが、私個人は、小学校一本に絞ってきています。異校種に行く気持ちはありません。
 今後も中学校の免許を使うことはないでしょう。
 だから、わざわざ中学免許までとっておく必要はありませんでした。
 
 とはいえ、それは今のように教師が少なく売り手市場の時代だったらいいのですが、そうでない時代はとにかく取れる免許は取っておいて、まず採用されたいと思うのは当然のこと。
 
 ですから「小学校専門」というこの改革は、今の時代だからこその改革であるというべきかもしれません。
 時代の要請によってはフレキシブルな対応がもとめられると思います。

 ただし、ひとつひっかかるのは、「教科の知識よりも」という言葉。
 新聞には「」書きにされていますが、誰が言ったのかは書かれていません。
 読みようによっては、学校が言ったかのように読めますし、記者の翻訳のようにも読めます。
 だから、だれが言ったのかは問いませんが、現場からの要請に「教科の知識」を重視しないということはないと思います。
 それは、なんの教科であれ、教科のスペシャリストということは、どの校種であっても教師としての存在理由の根幹であると思うからです。
 専門家として学び続ける態度は、「教える」という仕事の精神的な柱であり、子どもを薫陶する力となります。
 本来、「クラスをまとめる力、地域や保護者との連携力を持つ教師」とは、「専門的知識を有し、教えることのプロ」であるからこそ生まれてくるものです。
教科の専門知識を抜いて、それだけを独立して教え、身に着けさせるものではないと考えます。
 
 小学校重視というよりも、小学校の教師のエキスパートとして腹をくくって4年間学ぶための養成課程の改革については、良い方向であると思いますが、ぜひ、なんらかの教科の専門家として自分の根っこをちゃんと持てるようにするという視点を忘れずにいてほしいものだと思います。

 もうひとつ、特別支援教育には力を入れてほしいと思います。
 これはまさに即戦力です。
 どの学級にも発達に課題を抱えた子どもがおり、それへの合理的配慮を提供しなければならないのですから、特別支援教育の専門家を合わせて目指す人には同時に取得できるようにしてもらいたいものです。

2018年1月、京都府京丹教職員の負担軽減を目的委するために校務支援システムを導入したというニュースが出ました。

 これによると、通信簿や指導要録、出欠情報をPCで管理し、書類作成の事務作業の負担を減らすという考えです。

 同市教委では、すでに2011年からタイムカードを導入しており、勤務時間が長い職員には、学校長が声掛けをして健康を害さないように指導するそうです。

 このような意図で校務支援システムを導入する自治体は増えています。
 働き方改革により何とかしようとしているんです。


 私の住むところでも、同じような状況です。


 教師が長く残って明日の準備をしていたら、学校長に指導されます。いかにも効率が悪い教員であり、もっと段取りをよくしてサクサク仕事を進め早く帰れるように働き方を是正しなさいといわれているかのようです。

こういったことが、現場の教師にとってはとても違和感があることは、市教委はご存知でしょうか。

これを働き方改革と言われると違和感がある・・:なにか、すり替えられているような気持ちになるのです。

 授業の準備をしなければ明日の子供たちが困るから、残って授業の質を高めようとしているのです。それを指導により帰らせられたら、できるはずのプリントや資料ができないままということになります。


 校務運営システムにより書類作成の時間が減るということですが、実際にそこに入力するのは教師です。教師は児童生徒の状況や、出席の状況を放課後に入力するのです。さしてかわりません。

ましてや、「期限厳守」などと記された委員会からの調査を気担当教師に任された場合、「早く帰れ」と指導されたら、授業の準備を置いてでも先にそれをしなければならない。

帰るのは早くなるかもしれませんが、そうやって仕事の質を落とすことが働き方改革なのか、ということです。


 校務運営システムの導入は、働き方改革の一つの形にはなっても解決の糸口にはなりえません。


私たちには、「学力向上」という至上命題のもと、授業の質を落とすとすことは認められません、

 長時間労働の根源は、授業時数です。そして、人の不足です。   


 5時までの間に、授業する時間しかない、というところが長時間労働の原因なのです。


 教師は学び、準備しなければなりません。

 教育行政にかかわる上のほうの方々や、いたずらに授業時数を増やしたがる議員さんたちは、「子どもの勉強内容くらい、いちいち研究しなければならないことはなかろう。大人なんだから教科書の内容くらいその場でわかるだろう。教科書を子どもの前で読んで、テストをしておしまい。簡単なことだ」くらいにしか考えていないのかもしれません。

 しかし、ノーベル賞をとらせるための教育は、そんなものではありません。これからの急激な変化に耐えられる子供を育てるための教育は、「教えてテスト」ではだめなのです。
 丁寧に、丁寧に、やらなければならないのです。
 

 また、一般の学校は附属小学校かなにかのように授業だけに集中して教師のリソースを投入できるわけではありません。

 かなりの時間を保護者対応、生徒指導に割いているのです。

 明日の準備は、保護者が帰った夜の9時から、ということが年に何度も何度もあるのです。
 教師がせねばならないこと以外のことがたくさん課せられているという認識の上で働き方改革を行わなければ 絵に描いた餅です。

 結局「人」です。
 時間数を増やしたうえで負担軽減をいうのならば、人の拡充しか解決の道はないのです。
 「研修」でも、「使える資料のアップロード」でもありません。
人です。

 また、働き方改革は、部活動問題の解決だけにスポットがあてられるべきものでもありません。
 教職員の長時間労働といって「部活動」のことしか出てこない記事や報道に、いらだつ小学校教師は多いのです。

 小学校の、「4時まで授業して残り1時間で明日の6時間分の準備」という簡単なだれでもわかるおかしな状況にメスをあててもらうことが必要です。


佐藤学氏の「教師花伝書」を読んでいたら膝を叩く箇所がありした。

教師花伝書
「教師は、教える専門家であると同時に、「学びの専門家」でなければならない

「西洋東洋を問わず、古来、教えると言う不遜な仕事を教師が行うことができたのは、教師自身が他の誰よりも読書をし、学んでいたからである。よく学ぶ者のみが教壇に立つことを許されたのである。その大元が隠れているとしたら、これこそ教育の最大の危機と言うべきだろう。」

「教師が本を読まなくなったとよく指摘されるが、それ以上に、教師が美術館やコンサートや市民研究会から姿を消している。多忙な仕事に追われて学校と家庭に閉じこもり、教育の専門家としての教養も市民としての教養も衰退させているのではないだろうか。」72
以上、「教師花伝書」から。

学ぶ者のみが教壇に上がることを許される、というのはまさにその通りであり、古来、教師の薫陶力はそのことによって働いて来たのだと思います。

「先生ってすごいなぁ」という憧れの根本は、教師の学び続ける姿。

しかし、それが今後ますますできなくなっていくことを、教育行政に関わる役人たちはどのように考えているのでしょうか。

学ぶ時間どころか、翌日の準備をする時間さえもないと私は言い続けているのですが、その自明のことをいかにすればわかってくれるのか。
 
いや、わかっているのですきっと。しかし、同調圧力や外部からの圧力に抗しきれずに、そこに蓋をしている。
教育の破綻はすぐそこに来ているのに、目を開くことはしない。

教師の学ぶ時間はますますなくなり、子どもたちへの薫陶力もなくなり、教育は破綻していく。

なんとかそれに抗するために、ほんの少しの時間を使いながら、私は本を読み続けていきます。

こういうことの上に、日本の教育は成り立っているのだということと、それがますます困難になってくるということを、なんとか政策決定の場にいる方にわかってほしいと思います。


一年生くらいの子どもによく見られますが、わざと叱られるようなことをする子はいませんか?

わたしも過去受け持ったことがあります。
何度叱っても聞かなくて、同じことを繰り返すんですよね。
若い頃は結構悩みました。

その頃、本を読んでおけばよかったのに、と思います。

「こうすれば怒ってもらえる」

何度言っても同じことを繰り返し、その度に叱られる子供は、こういうことをしたら叱すってもらえる=関わってもらえるという負の学習をしている可能性があります。

小さい子供におおいですが、中学年頃まで続くこともあります。

「親と子のアドラー心理学‘では

「いたずらをする、暴言を吐く、などそれらの子供の目標は、そうすることにょって大人を動かすことにあります〜ここで大人がやってはいけないのは、注目を与えることです。〜叱られチャリ叩かれチャリすることは、子供にとって不快なことであるはずなのに、親から無視されるよりは叱られても、叩かれても、そすいて注目を得ることの方が重要なのです」

とあります。

しかることによって望む結果を得ることができた子供はそれを繰り返してしまいます。
だから、不適切な行動以外の、当たり前のことができたときに注目してほしい、とあります。

しかし、注目を与えないということは、学級生活の中では難しいことですよね。
放置していたらどこかへ言ってしまうかもしれないし、他の子どもも「自分もやっていいんだ」といってやり始めてしまうこともあるし。

しかし、教師の方に子どもが怒ってもらいたがって繰り返しているのだという理解があると、余裕ができるものです。

たとえば、一言注意して周りの子にもいけないことをしているのだということを知らせた上で、「お勉強を続けましょう、そのうちもどってくるから」と言って勉強を続けるということが、あまり感情に波風を立てずにできるようになります。

つかず離れつの距離感といいますか。
そういうの、大事ですよね。

日本人学校の経験が,今の私をどのようにつくっているのか。当時のたくさんの記録と,膨大なジタバタ経験から述べました。
日本人学校への派遣前夜から,海外引越を経て,3年間にわたる生活について。 当時のパソコン通信などのIT事情 メモや手帳などで記録をすることの良さ などについて書いています。

教育雑誌からのメモを整理していました。
もう20数年も前のメモです。

そこに下のような記述がありました。

「アメリカ合衆国では、基礎学力を一斉授業でやりたくても無理なのである。


なぜなら、子どもたちの社会的背景が非常に異なっていて、日本に比べると、同じ学年の中の子どものたちの学力差が、ある研究者によれば、日本のそれの三倍はあるからである。


移民や難民の子ども、
典型的なインテリ中流階級の子ども、
単純労働で家庭環境も悪い低所得者層の子ども等々、
文化的等質性が非常に低く、一斉授業では確実に落ちこぼれを作ってしまうことになり、「個別学習」や「個別指導」をするしかないのである。

日本でも、外国人子弟や帰国子女の増加が進めば、そのうちにそうせざるを得なくなるかも知れない。


授業研究 1993-11 403 p11」


そして今,確かに日本でもそうなっています。


一斉授業が難しくなっているのは,同じことが日本の学級でも起こるようになっているからです。


「一斉授業から協働的な学びへの転換」という21世紀型の学校の様式の変化はこのような背景からも来ていると思います。


小1プロブレムなどは,実は矯正されなければならない問題なのではなく,対処すべき課題なのでしょう。


子どもが一斉授業を受け付けなくなってきているのです。

これからの時代は,何が何でも一斉授業,一斉授業ありきの授業ではなくなっていくことと思います。

はねる

今朝の読売新聞に、学校の校務運営システムに在宅で繋がる、いわゆるテレワークのことが書かれていました。

大阪市教委が2014年に校務運営システム導入とともに始めたことです。
それまでは、通知表や指導要録など、外に持ち出せないために在宅で仕事できず、遅くまで残らねばなりませんでした。

また、子育て中の教師は、遅くまで学校に残れないので、休日出勤を余儀なくされていました。
しかし、家で運営システムにアクセスできることで、退勤を早められるようになだだということです。午後6時には家に帰れるようになった例が掲載されています。


さて、「よかったよかった」と言いたいところですが、実はそうではありません。これは、生活の仕方が改善されただけであって、仕事量の多さが緩和れるわけではないからです。

午後5時以降はプライベートではありませんか。アクセスできるようになったとは行っても、結局仕事はしなければならないんです。赤ちゃんを抱いて。
「よかったよかった」というためには、早く帰れた上で家でも仕事をしなくて済むことが大事なんです。

なぜ?

 それは、教師は人を教育する仕事だからです。人を教育する人は自分を磨き続ける人でなければなりません。5時以降は、そのための時間に使えなければならないのです。
家族との大事な時間をきちんととった上で残る可処分時間で、十分な知的な活動を行う時間が必要なのです。研究、読書、対話、鑑賞。

これらのことが土台になり、私たちは深い教養を持って子どもたちの指導に当たることができるようになります。
寝るまで明日の準備や事務仕事では、教師は自分の成長ができません。

だから、私たちには、午後5時までに全てを終えられる環境が必要なんです。


午後の授業は外注にして、教師は事務や研究に午後を使えるだけで日本に教育は変わります。

人を増やして空き時間を作るだけでも変わります。


そういうことをしなくてはダメです。

アクセスできるようになったということは、家でも仕事をせよと行っているのと同じですから。


とはいえ、まずはここからですけどね。
その点で、テレワークはゴールではなく、第一歩。
まだ、これさえ実現できないところもあるんだから。まずはここから。


鳥取県教委は、校務運営システムを導入した時に「教員の業務は学校で全て終わらせるのが本来の姿だ」としてテレワークを見送ったそうです。

これは逆に素晴らしい。
午後5時で全ての業務を終わらせるために、県としてなんとかする、という覚悟の姿です。(・・・であってほしい。そうでなければ、実体のない単なる筋論で、「業務を改善して早く帰れ。でも仕事は全部終わらせてから帰れ」と行っているに等しいからです」

以前、下のような記事を書きました。

この春の異動者の方へ。異動による「うつ」をうまく避けましょう。 | 知的生活ネットワーク

「異動鬱」というのがあるようで、新しい環境になじめずに気持ちがふさいでしまうことがよくあります。
その時期を乗り切ったら後は何でもないのですが、ふさいでいる最中は、朝起きるのがつらかったり、前の職場を思い出しては帰りたくなったり など、なかなかつらいものです。

私もなんどもそれを経験してきましたが、 結局はそういう自分を受け入れることが大事かと思います。
「ああ、自分は今、異動による鬱をあじわっているのだなあ」という具合です。

もうひとつは、その環境に自分の居場所をつくる、つまりわかってもらう、認知してもらう事だと思います。そうすることで迎える方が「新しい仲間だ」と思ってくれるようになるし、自然に居場所もできてきます。

そうして最後に、自分でも一番よいと思っていること。
それは、「今に集中する」ということです。
気持ちがふさいでくると、頭がそっちの方に引っ張られていきますが、すぐに今していることに気持ちを戻すのです。
そして呪文。
「今、このことに集中。」
「今を大事に」
などを自分に向かって投げかけます。

すると、いつのまにかふさぐ気持ちもどこかへ行き、気付いたら乗り越えているということがよくあります。

ゴールデンウィークが終わる当たりが勝負所。

気持ちの良い5月を味わいながら一歩一歩大事に積み重ねをしていきましょう。



 

今日が始業式だった小学校は多いのではないでしょうか。
そして担任発表も。

いつもそうでしたが、担任発表でドキドキワクワクするのは子供達だけではありません。
私の名前が呼ばれた後、子供達からはどんな反応があるのか、しーんとなったり泣き出したりしたらどうしようとドキドキしていたものです。

それでも、若いお兄さん先生の頃は、だいたい毎年、わーっ!と歓声が上がっていたものです。

ところが、ある年、異変が起こります。

去年までは確か歓声が上がったのです。
ところがその年、初めてどよめきを耳にすることになりました。
「こわいよぅ」という小さな声も聞こえました。

私はショックを受けました。

まさか、どよめかれるとは。そして、こわいよ・・・といわれるとは・・・。

ちょうど、受け持つ子供達が初めて自分の息子よりも年下になった年でした。
私自身になんらかの雰囲気の変化が生まれたのでしょうか。
自分の息子よりも小さな子たちを担任するという、ある意味尊大な感情があったのかもしれません。君たちのことはもう全部わかってるんだぞ、というような上から目線的な見方が。

次の年には初めて理科専科となり、担任を離れ、それから8年間ずっと専科のまま年齢を重ねました。

もう自分には担任はないだろうな、どよめかれたままになっちゃったな、と諦めていたある年、私は8年ぶりに3年生の担任となりました。
嬉しさのあまり寝られませんでした。

そして迎えた担任発表。
あのどよめきから10年近くたっています。私もさらにおじさんになりました。
子供達から見れば十分に怖いおじさんです。
どよめかれることも静かに受け入れられる年齢になっていました。

しかし、担任発表で私の名前が呼ばれた時、小さな小さな子供たちは、わーっ‼︎と歓声を上げてくれたのでした。

私はその子供達を大切に大切に育て、4年生に送り出しました。

その子たちも、今年高校2年生です。

毎年、3月になるあたりから学級通信を増産していました。
もともと不定期な通信で、時間割やお知らせとは別に出していた勝手気儘な通信です。
不定期とは言っても、週に2回は出していましたから、だいたい年に100数十号は超えていました。

とはいっても、昔は意地でも毎日出す人などがゴロゴロいましたから、大したことはありません。修学旅行の先のホテルでも出していたくらいですから、その意地たるや半端なし。

それでも、私なりによく書きました。ブログなどない時代ですから。

3月になると、書きたいことが何かの曲線のように一気に増えてきて週に2回程度では収まり切らなくなるのです。
一回に2枚くらいは出していましたし、4枚出したこともあります。
修了式の日に6枚出した年もありました。
いい迷惑だったろうなと思います。

子どもがこうしていた、ああしていた、と、なんでそんなに書くことがあるの、というくらい、やはり現場では様々な物語りが並行して進行しています。
それらをあれもこれもキャッチして発信しようと思っていたんです。きっと。

学級通信を書くのが好きでたまりませんでした。
子どもが毎回待ってくれていたんです。別に子供向けに書いてるつもりはなかったんですが。
だから、書くのが好きだったんでしょうね。
ブログ書いて、コメントがついたり、拍手やいいね!をもらえるようなものだったのでしょう。

30年経った今でも、大切にとってくれている人もいます。そういうの聞くと嬉しいですね。

1年生の授業をみせていただきました。

グループを作って、あれこれと話をしていました。
それぞれの子どもが、お互いの話を聞き、うなずき、そして自分の意見を述べて、おりあいをつけていこうとしていました。

たった1年前、入学してきたときはそれぞれがしたいことをしていっしょうけんめに主張する、すずめやめだかの学校のような小さな子たちでしたが、それが今やまさに2年生になろうかという風格がでてきていました。

1年間の成長というものは本当に大きなものだと思います。

人が一人で成長していてもなかなかこれだけの成長は見られないと思います。
自分以外の他の「個」とぶつかりあい、わかりあい、作りあっていく中で、自分の「個」がだんだんに作り上げられていくのです。

教育の大事さをみるような思いでした。 

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