Lyustyleの教育ちゃんねる

カテゴリ: 授業について

運動場や体育館での体育の後、「はい。おしまい」とやると、子どもは「わーっ!」と走って帰りませんか?
そのままにしていると、校舎の間に入って狭くなってきた時に押し合いへし合いが始まり、こけてケガをします。

また、靴箱あたりでも我先に靴を履き替えて校舎内に入ろうとしますので、靴箱が荒れますし、そこでこけてケガをする子どもが出ます。

まだ我先に、の気持ちが続いていますので、スピードを緩めません。ワーワー言いながら階段を上がっていき、足音と叫び声とで、大変な喧騒になります。

どうしてこうなるのでしょうか。

昨日、緊張を解く話をしましたが、急に緊張が解かれると子どもたちはその反動でパッと動き出します。
だから、急に子供達を手放してはいけないのです。

一度教師の手に届く範囲の中で緊張を解かせる。
運動の終わりの静かなエクササイズをして、心と体を落ち着かせてから、「終わりますから静かにお帰り」とさっと静かな声で指示します。
そうしたら初動でパッと散開することはありません。

その後見守っておかないとだんだん早歩きになり、最後は走り出しますので、この都度声かけを。
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授業を見て学ぶ機会は沢山あります。
研究授業、自主授業研究など。

その中で、「お!すごいな。子どもが一人残らず集中している」と思える授業に出会います。

そんな授業を行う先生は、決まって子どもの発表やつぶやきを、一生懸命に聞いています。
決して、自分の立てた授業の流れに沿わせるように子どもの言葉を改変しようと思って聞いているのではなく、子どものいうことそのものを受け止めているのです。

そこから、授業の組み立てをし直すので、リアルタイムに授業案が変わって行きます。当然指導案の通りには行きません。

でも、そういう授業は生きています。子どもたちはその授業の中で活かされていますので、安心して授業に没入できるのでしょう。

学んだことを言葉にした途端、子どもが自分のこと思い通りのことを言ってくれなかった教師から苦い顔をされることを繰り返されると、子どもは教師の思うようにしようとするようになるか、勉強しているふりをするようになるか、もっと直接的には、ざわざわし始めるかです。
とても、主体的で対話的な深い学びどころではありません。

立てた計画はあくまでも仮説ですから、その検証を使命とする授業でなければ、その場でどんどん変えていけばいいのです。

でも、これはこれで、修行が必要です。
今、この時にある、ピンポイントでの子どもの姿を丸ごと受け止める微視的な見方は、授業全体を俯瞰し、目標の達成まで引っ張っていく巨視的な見方と常につながっていなければなりません。

そして、それは次々に更新されていくのです。

まさに神業。

しかし、若い頃から修行すればその二つの起点はリアルタイムにリンクできるようになります。

そのための第一歩は、子どもの言葉を丸ごと受け止めることではないでしょうか。

まず、微視的に受け止める力を身につける。最初はそこに振り回されたり、瞑想したりすることもありますが、恐れないでどんどんリアルタイムに流れを変えて欲しいと思います。

10年もすると、リンクできるようになりますので。

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近頃はあまり見なくなってきましたけど、以前はよく黒板にラミネートした資料を張っている授業を見ました。

せっかく作った資料だから、大事にしたい、見栄えよくしたいという気持ちからだと思います。

でも、これやられると、教室の前面、端っこの席の子どもは資料の表面が光って見えないんですよ。
子どもは何も言わずに黙っているから、先生は気づかないんですよね。

もし、ラミネートした資料を黒板に貼っている先生がおられたらどうぞ指摘してあげてください。
もしくは、端っこから見えるかどうな確認して見てください。
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 授業の終わりにまとめをしますね。
子どもがこの授業でわかったこと、できるようになったことを自分なりに振り返らせて終わります。

落語でいうなら「下げ」と言ったところでしょう。トントンと終わって「お後がよろしいようで」とやらなければなりません。

ところが、これまでの緊張が一気に解けてしまうようなまとめをしてしまう時があります。
子どもがすでによく学んでいるのに、また同じことをまとめで1つ1つ確認してしまうときです。

すでにわかっていることをいちからなぞられる。ひとえに、教師に自信がないからです。

しかし、もうわかった子どもにとっては、同じことをなぞられるよりも、本当にできるかどうか試したがったり、自分なりにまとめたかったりします。

受け身がちな子どもは、それでお客さんになってしまいます。集中など一気に消え、先生の話が終わるのをひたすら待ちます。

満足するのは先生だけ。子どもの気持ちはもうどこかに行ってしまってます。

落語の下げのように、おわりはトントンと気持ちよくおわりたいものですよね。


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 若い先生が1年生の描いた絵をもってきて,「アドバイスの仕方がわかりません」と言って悩んでいます。
 
 
 教室に入って見ると・・

 あらあら・・素敵な柄じゃありませんか。
 先生と信頼関係に裏打ちされた,リラックスした,お話の一杯つまったいい絵だと思いました。
 全然アドバイスなどいらない,すでに完成された絵です。

 この前のお休みの時,家族と行った公園でバーベキューをした絵。
 よこの台には,野菜が載っています。今から焼くんでしょう。

 よくみると,白い三角に黒い四角がかかれたものが6つならんでいます。

 もう,好奇心がにょきにょき出てきて,これ,「おにぎり?」と聞いたら,
 「焼きおにぎり」
 なんだって。

 へえ!
 「じゃ,このおにぎりの横の青いのはお魚だね。これから焼くんだ。」
 といったら,
 「これはね,さめのあかちゃん。つれたの。」
 っていうから,もうびっくり。

 アドバイスなどいりません。
 描いた絵をもとにお話して,そこにかくされたたくさんの「秘密」を引き出してやればいいんです。

 子どもはそれを「絵」なんて思っちゃいません。
 砂場で遊んでいるように,ただ色と形をこね回して遊んでいるのです。

ボールあそび


 そうやって,

 楽しかった,とか,
 びーっくりした,とか,
 うわ!大きかった!とか,
 おいしかった~とか,

 そんなことをくちゃくちゃ言いながら,砂場で砂と戯れているように,腕と頭と心を動かしているんです。

 それを,教師は「絵」だと思ってしまう。

 白いところがいっぱいあって,「ちゃんと全部塗ってない。完成してない。絵としてしあがってない!」と思う。

 色は線からはみ出してるし,人は気をつけしたり万歳してるだけだし,顔はなにかのお人形みたいだ。色は青一色べたっと塗っているだけで,ピンクとか水色とかと混ぜ合わせるともっときれいになるのに・・・
 なんとかしてもっと見栄えの良い「絵」らしくしてあげなくちゃ。

 それでアドバイス,という言葉が出るのです。

 でも,子どもにとっては余計なお世話です。
 せっかく楽しく描いたものをなんで頼みもしないのにアドバイスされなきゃならないの?
 アドバイスって,こちらから頼んでしてもらうもんでしょ?
 してもらいたくもないのにされるアドバイスなんて,余計なお世話。

 でもそれが続くと,子どもは従うようになります。
 「先生がこれでいいって言った。だから完成。」
 「白いところに色ぬらないとできたとはいえん,と言われた。でも空と地面の間って,空気でしょ。色なんかついてないから何色塗っていいかわからない・・しかたない。黄色でもぬっとこう」

 まあ,そのようなわけで,「情操を豊かにする」という教科目標からどんどん離れていくわけですね。

 アドバイスなどなし。
 「できました」と言って先生の前にずらっと行列ができるようなこともなし。
 先生は,机を回って,子どもの絵から秘密を解読していけばいいのです。
 子どもはその絵を元に楽しくお話をしてくれます。
 びっくりするようなことが隠されています。
 それを先生が読み取ってくれた時,子どもはその絵を描いたかいがあったのです。
 そして,またさらにお話をしてくれます。

 そのうえで,「はあ。満足した。たのしかった~」と達成感を感じたら,その絵はそれで完成です。
 先生との楽しい会話の中で,さらにもっとこうしよう!と思ったらまた書き続けるでしょう。
 終わりか,まだやるのかは,教師が決めるのではなく,子どもが決めるのです。

 その自己決定は,教師とのお話の力です。
 
 白いところを含めて子どもの表現です。
 決して未完成なのではありません。
 堂々と,貼ってあげましょう。


 ・・・というようなことを若い先生にお話しました。
 少しすっきりしたみたい。
 そのあとは,楽しく子どもたちと絵についてお話をされていました。

 こういう表現を繰り返していくことで,子どもは達成感を感じ,「もっとこうしたい」という気持ちが生まれ,技能を高める欲求へと結びつき,その技能を使うことでみにつけていく。
 そうやって,自然に「絵」の技能を高めながら情操が豊かになっていきます。
 
 だから,お話をしましょう。
 
  
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若い頃から、子どもに直球でビシッとわかりやすく指示を出すことを大切にしてきました。


でも、同時に、より子どもをワクワクさせる指示も大事にしてきました。

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1年生にこちらを向かせるときは、どのようにいうといいのでしょうか。


「こちらを向きなさい」という指示は,実にスッキリしています。


しかし,こんなにはっきりした指示でも,1年生の中には反応できない子どももいます。


まだ教科書の絵を見るのに夢中になっていたり,書き終わっていなくてまだ書いていたかったり,そのような行動に折り合いをつけて,さっとやめて教師の方を向く。これがなかなかできません。


「こちらを向け」というのは,教師の勝手であって,子どもにとってみれば,「なんで,今楽しいことをしているのにそれを中断させるんだ。邪魔しないでくれ」と言いたいでしょう。それはそれなりに分がありそうです。


しかし,授業の流れの中で,次の指示を与えて先に進まなければなりませんから,教師はこちらを向いてない子どもを注意したり叱ったりするのです。


「こちらを向きなさいって言ったでしょう」とか「こっちを向くまでじっと待ってるよ」とか,そんなことを言って。



では,「きれいな目を私に見せてください」と言ったらどうでしょう。


「こちらを向きなさい」とは明確に違いますよね。


「先生がわたしのきれいな目を見たがってる。みせてあげたい!」という内発的動機による行動になります。


同じ「こちらをむく」という行動ですが,外発的であるか内発的であるかという違いが出てきます。

子どもをこちらに向かせたい時、「こちらを向きなさい」というか、「きれいな目を私に見せてください」というか。



私は,どちらかというと,子どもの内発的な動機による行動を促したいと思っているのです。


絵の具の筆遣いの指導をするとき,「筆を紙に押し付けて書いてはいけません」というか,「筆が痛がっているね。」というか。


廊下をぺちゃくちゃしゃべりながら歩いている子どもに,「静かに歩きなさい」というか「しゃべっていることに気づいているかな?」というか。


日々,そのような指示を考え,見直すことができるのが,教師としてのやりがいであり,楽しさだなあと思います。


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黒板にめあてを書いている間には、早い子どもと遅い子どもとの間にスピードの差ができ、それが隙間の時間となって速く出来た子どもの気持ちを下げてしまうことがあります。

速く書けた子どもが背筋をピンと立てて終わる子どもをじっと待っている様は、見た目には整然としていいかもしれませんが、必ず綻びが出てきます。

ピンと立てられない子どもたちがざわざわとし始めたり、動き出したりします。

こういうことが何時間も積み重なっていくと、そのうち背筋をピンと伸ばしていた子どもたちまでがだんだんとやらなくなってくることがあります。

これは、学級が乱れていく第一歩です。
速く終わった子どもたちにはそれなりの活躍の場が必要なのです。

あるクラスでは、速く終わった子どもが挙手をし、めあてを声高らかに読み上げます。読み終わった瞬間に他の子どもが挙手をし、今読み上げた子どもが次の子どもを指名します。
こうして、活躍させている間に、教師は子どもの進行状況を見てまわることができます。

また、めあてを教師よりも先に書き終わらせるという指導の工夫もあります。

教師はワンセンテンスごとにめあてを言い、それをわざと少しゆっくりと黒板に書くのです。
こうすると、速い子どもと遅い子どもの差がさほどつきませんし、ほとんどの子どもが教師より速く書き終わり達成感を得ることができます。

また、かんのいい子どもの中には、先に自分でめあてを予想して先回りして書いてしまう子どももいます。そういう子どもも、自分が書いためあてが正しかったかどうかわくわくしながら教師が書いていくものを見つめているので、すきま時間にはなりません。

何をしていいかわからないすきま時間をつくってはいけません。
ちゃんと出来ていた子どもたちまでもがほころび始めるのがこわいのです。

テストを出した後、どうするのか。
給食の準備の時間に何をするのか。
帰りの準備の時間を何分でおわらせるのか。

教室では、何をするにも様々な工夫ができます。
そこにやりがいがあります。

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今晩は!Lyustyleです。 

今日は、退勤処理の後に職場に残って勉強をしていたら、読んでいた本の中でこのような文言に出会いました。
「教師が説教したり、叱ったりして忘れ物がなくなるでしょうか。それはなかなかの難問です。かえって借りに来ることさえあきらめてしまうようになる子供もいます」
通常学級で使える「特別支援教育ハンドブック」という本です。

近頃は特別支援教育をしっかり学ばなければと思い、基本的な本を求めて読んでいるのですが、その中にあった文です。 むらむらと何かかかなきゃという気持ちになりましたので、今日はこんなことを書いてみたいと思います。

忘れ物をした子どもをしからないで済む「忘れ物カード」

忘れ物をして困っているのに、なぜ忘れ物をするのかを考えてしまいがちな私達

教師は、子供が忘れ物をすると「大変だ。何とかしなければ」と思います。
そしてつい忘れ物する根源を断とうとあせり、「叱る」ことで忘れ物をしないようにしようという気持ちを持たせようとすることがよくあります。(私も)

ところが、忘れ物をしたその時に必要なことは、とりあえずものを準備させてその時間の学習が困らないようにしてやることです。忘れ物がなくならない、ということと、その時間にものがないことで学習に支障をきたしていることとは別問題なのです。

それをどうしても教師は「困るのは、忘れ物をなくそうと努力しないからだ」という考えに支配されてしまって、ついお説教をしてしまうのです。
せっかく忘れました、と言いに来たのに。 (私も)

今必要なことは、学習に困らないように忘れたものを借りてこさせることです。そのために「忘れました」と自分から言ってこさせること、そして学習が始まる前にものを準備させておくことが必要です。

忘れ物をなくさせるための取り組みは、その時間に行うことではなく、学習後や放課後などに行うべきことなのです。

これがなかなかできず、せっかく勇気を出して来た子に説教し始めてしまう。

「何度も繰り返される」ことに対するいらだちでしょうか。
「あれだけ毎日貸してあげているのにまったく忘れ物をなくそうとしない。これは私が毎日最終的には貸してあげているから甘えているのだ。もう貸さないぞ!」というような心境になることもあります。

こうやって説教されると、冒頭にあったように子どもは「忘れました」といって借りにいくことをあきらめるようになるでしょう。あとで見つかっておこられても同じこと。

あきらめる子どもをつくらない忘れ物カード

しかし、これをふせぐ方法があります。 わたしが行ってきた「わすれものカード」です。
つくって20年以上になるでしょうか。 これをつくってからわたしは忘れ物で子供を説教することがなくなりました。 カード自体はいたって簡単。よくあるこんなカードです。   wasure

その学期、初めて忘れものをした子供にカードをわたします。

「月日」があります。「宿・もの」というのは、宿題忘れか、ものを忘れたのか、ということ。 よくあるカードです。

しかしここからがちがいます。 一番右に「何回目」かという欄があるんです。

子供がカードをもってきたら、「はい」といってすぐににカードを返します。 その時にこの「何回目」を見るのです。そうすれば「何度も繰り返している子か」それとも「今日はじめてその教科のものを忘れたのか」が一目でわかるのです。

このカードをつかっていなかった頃は、学習の始まりに子供がずらっとならんで「○○わすれました」というのを「わかった。」「はい」「次は忘れるな」と指導をし、授業をはじめていました。

ところが時にはたくさんの子が忘れて列が長くなることがあります。
10人くらいになってくるとだんだん腹がたってきて「なんだ!」などと声をはりあげてしまうようなことがあったのです。

普段から忘れている子は慣れていて要領がいいのでなるべく早く言いに来ます。
しかし列の後のほうにくる子たちは往々にしてむしろ普段あまりものを忘れない子たちであることが多かったのです。

よく忘れる子には叱らず、あまり忘れない子たちを叱ってしまう。

このことの反省から、わたしは忘れ物カードをつくり、「何回目」という欄をいれました。

これで、毎回忘れる子とめったに忘れない子がすぐにわかるようになり、理不尽な叱り方をせずともよくなりました。

また、よく忘れる子も、なんでもかんでも忘れるわけではなく、国語の教科書ばかり何度も忘れるとか、今日忘れた算数のノートは実は初めてだったとかそういうこともわかります。
だから、初めて忘れた算数のノートの時には「今度は忘れないようにね」と冷静にいうことができるのです。

このカードは子供にとってもいい。 さすがに回数のところに「4」と書かなければならない子は、こりゃなんとかしないといけないぞ、と自分で自覚するようになります。
自分がこの忘れ物をしやすいことが「見える」ようになるからです。 「回数」を書くという工夫だけで、子供たちとの学習が自然に進んでいくようになりました。 こうして「忘れました」と言いにくることをあきらめさせるようなことはなくなったといえます。  

むしろほめることさえできる忘れ物カードの運用

さらに、一言。私はこのカードを持ってくるときに、すでに友達に借りたものも添えてもってくるようにさせていました。

そして「先生。教科書、忘れました。でもとなりのクラスの子に借りてきました!」そういって、すでに借りてある教科書といっしょにカードを持ってこさせるのです。
これでその子は勉強に困らないし、「よし、ちゃんと借りてきたね」とほめることさえできるのでした。

さらにもうひとつ。

  最初に「その学期、初めて忘れものをした子供にカードをわたします。」と書きました。 javascript:void(0)

そうです。1学期が終わってこのカードをもたないままの子どももいるのです。

そんな子たちは手放しでほめました。 何とか最後までカードをもらわないで済ませようと一生懸命に準備をする子どももいました。

でも、6月になって初めてノートを忘れ、残念そうな顔でカードを貰いに来る子どものかわいらしい顔。

時々リセット

それでも、学期が変わったらリセットです。全員リセット。まったくゼロから開始です。

  今日はそんなことを思い出しました。  

追記

続きを書きました!

その2【教育現場の工夫】忘れ物をした子どもをしからないで済む「忘れ物カード」のふたつの秘密 | 教師の知的生活ネットワーク





追記 2014/11/28

この記事は、知的生活ネットワークより、こちらへ移動してきたものです。
  【教育現場の工夫】忘れ物をした子どもをしからないで済む「忘れ物カード」 | 教師の知的生活ネットワーク
こちらから移転してきました

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私たち教師は「研究授業」というものをやります。

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「指導案」という、授業の設計図をレジュメにして配り、他の教師たちが見ている前で授業を行い、あとからその授業の良しあしについて協議しあうのです。


この研究授業によって、若い教師は授業の腕を伸ばし、育っていきます。


今日、受けた研修で、研究授業は明治以来の日本の文化であることをしり、少々驚きました。

それと同時に、アメリカの学者が世界の教師の教授法を検討したところ、日本の十業者の授業が一番理想に近かった。その理想というのは、教師が教えるのではなく、子供が自ら考えて解決して答えを見つけ出す授業です。日本の教師の指導法がいちばんこれに近かったというのです。

その理由を調べたところ「日本では研究授業なるものを行っている。これがよい授業を生む秘密だ」と結論し、本にまとめたところ世界中でベストセラーになり、現在、研究授業が世界中で行われるようになってきたとのこと。しかし、当の日本では、忙しいことを理由にだんだんおこなわれなくなっていること・・・そのようなことを聞いてきました。


研究授業。私も毎年少なくとも1本は必ず指導案を書いて授業を見に来てもらってきました。今年で27年目になりますが、毎年必ず行ってきました。


その中で確かに授業の技、教材の研究のしかたなどを身につけてきたと思います。


ところが、いわゆる「研究授業」ばかりが行われ「授業研究」の視点があまり問われなくなってきているのではないかと思います。


「研究授業」とは、各学校が設定したテーマにより、仮説をたて、その仮説を実証するために行う授業です。授業後の協議会では、仮説を検証するための手だてが有効であったかどうか、が焦点となります。


しかしそこでは、授業の腕に関する部分がとわれることはありません。「言葉が早い」とか、「子供のほうを見ていない」とか「教師がしゃべりすぎる。もっと子どもにたくさん活動させる時間を・・」とか、そのような授業技術にかかわることは協議会ではあまり問われないのです。テーマ仮説の検証が優先であって、授業技術について話し合う時間はないのです。

かくして、せっかく研究授業のチャンスを得ながら、「授業が上手になる」ためのアドバイスなどはなかなか得られないのです。


このような授業の腕に視点を置いた授業を,「研究授業」にたいして「授業研究」という場合があります。

ことばを単にひっくり返しただけではありません。前者は仮説検証。後者は授業法自体に焦点を当てるという意味があるのです。


研究校に長くいると、仮説検証授業ばかりをおこないがちですからそれが当たり前のような感覚になります。

しかし、「授業が上手になりたい」という若い教師のねがいを実現するには、「授業研究」の視点も必要だと思うのです。

授業研究をたくさんおこなって、授業の腕をあげつづけていきたいものです。

2014/11/16 追記


 
研究授業か 授業研究か・・・・ | 教師の知的生活ネットワーク
こちらから移動してきました。

どうぞよろしくお願いします。
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